読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

Don't cry baby,please !!

少女フェミニストの備忘録

2.5次元に恋をして 萌えという原罪

みなさんお久しぶりです。maiです。

推しの武道館ライブが迫ってきていろいろと準備に追われております。

ということで、3月28日はアルスマグナさんの2度目の武道館ライブ、全国生徒決起集会の日です。

私は基本的に百合好きなんですが、なんで男性グループにハマってしまったのかよくわかりません……。本当に沼ってどこにあるかわからないから、怖い……。

簡単にアルスマグナの説明を。

私立九瓏ノ主クロノス学園」の高校生4人と教諭1人、およびぬいぐるみで構成されるダンスユニット。主にニコニコ動画の踊ってみたで活動し、2011年にメジャーデビュー。

まあ長々と説明するよりもダンスを観て頂きたいですね!

代表作の「ギガンティックO.T.N」踊ってみた。

 

私の一番好きな「クラウドライダー」踊ってみた。

 

私は昨年6月からハマりました。一度も入ったことのないファンクラブに入り、一度も書いたことのないファンレターを書き、滅多に行くことのなかったライブに入り浸る……。アルスマグナ恐ろしい子……!!

なるべくグッズとかには手を出さないようにはしているのですが、それでもアルスマグナ関係のCDは4枚、DVDは7枚所有、ペンライト2本、マンガ・ノベライズ3冊、タオル1枚(これはかなり少ない方だと思われます)。

なんだろうね、もうアルスに会えるだけで、元気に踊っている姿をみるだけで、ありがとうと言いたくなります……。尊いという言葉がぴったりきます。

私も東浩紀さんの言う動物化してしまったのか……と感慨深いです。萌えというのはやはり条件反射で、それに反応してしまったら、ずるずると沼に落ちていくしかない。

いくら「コスプレ」ダンスユニットと言っても、生身のひとへの萌えっていうのは申し訳ないと思います。でも好き……という二律背反な感情を持て余し、まさしく少女期のような気持ちにさせられます。萌えはオタクの原罪です、本当に。

私は相手が応えられないのであれば、その感情は諦めるか押し殺すべき、と考えているのですが、アイドルっていうのはそういう感情をすごい勢いでバキュームしていく存在なのかもしれないなあ、と考えています。そのなかでも節度やマナー規律とかがあって、アイドルという存在って危ういです。

私と小岩井アイドル殺人未遂事件はそう遠くない、と戒めのように感じています。アルスマグナにも握手会などのメンバーと接触する機会があるのですが、ドキドキと共にレスポンスに一喜一憂してしまう、自分っていったい何なんだろう……と感じてしまいます。アルスに接触する度、問われる自らのレゾンデートル。

しかしアルスメイトさん(アルスマグナのファンのことをそう言う)に「自分の速度で好きっていうのを受け入れられるといいね!」と言われ、アイデンティティが揺るぎながらも、好きっていう気持ちを受け入れています。本当にメイトさんは優しいひとが多く、私は救われています。メイトさんありがとうございます。

アイドルはファンの夢を叶えるのが仕事だから、と言い切ってしまうにはあまりに無責任に思えてしまい、私はどういう風にアルスマグナと向き合っていこうか、と考えています。それが私にできる原罪への贖いです。

とにかく28日は思いっきり声を出して、ペンライトを振って、一所懸命にアルスマグナのみんなを客席から応援していきたいと思います! 知り合いのメイトさんに会えるのも楽しみです!

ワンピース・フリーク

おはこんにちは、maiです。明けましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願い致します。

 

ということで、セールに行ってきましたよ。徹夜2日目で行くものではありませんね。思考力が低下して要らないものを買ってしまいます。ワンピース一着しか買っていないのですが。

確か去年もジル・バイジルスチュアートでピンク色のワンピース買ったよね。その後アース ミュージック&エコロジーでもベージュのワンピース買ったよ……と思い出しても後の祭。私のクローゼットにはざっと20着くらいワンピースがあります。

ワンピース。それは重ね着をしなくて済むおめかしアイテム。一着で万能なお洒落を演出してくれる楽ちん&経済的なお洋服なのです。

普段はオリーブ・デ・オリーブ(わからないひとにご説明すると、10代後半から20代前半向けのブランド。私はマーケティング外ですが、でもZARAなんかより手ごろで色やデザインを選べばまだ着れます)のセーターにユニクロヒートテックのGパンですが、ワンピースを着ればアラ不思議。あっという間に淑女のできあがり。やっぱりおめかしは楽しく楽してなんぼですよ。

ワンピース一着一着思い入れがあります。19歳のときに初めて好きなブランドで買った裁断の不思議な茶色の夏用のワンピース(「この大学にもこんな格好をする人がいるんだ」と友人から褒められました)。グレーのウール100%のカクテルドレス(太って入らなくなり、今は他の人に着てもらっています)。夏用の深い緑色のワンピース。アールデコっぽい柄がプリントされた絹100%の水色のワンピース。兄に買ってもらったレース付きのワンピース。前後逆にも着れるワンピースetc…… そんなワンピースがごっそりとあります。

今日は少し足をのばして、18歳の高校生のときに青いシャツを買った思い出のショップに行ってきました(移転してから数回しか行ってなかった)。

涎が出るのを抑えられませんでした……。素晴らしい!! いつかお金持ちになったら買い占めたい!! アイテムをチェックしながら、前よりデザインがすこし変化したかなあとか、素材は前と変わらないとかいろいろチェックしていました。

私は素材は食べられる動物の皮・毛皮ならOKという基準を設けています(アストラカンやハラコはNG)。豚皮のショルダーバッグやらうさぎのファーつきコートなど。

手縫いの刺繍入りストールめっちゃ可愛かった……。そして極めつけは金木犀の刺繍入りのスカジャン風ジャンパー。可愛くて中綿が入っていて、温かそうでした……。

今回そんな強豪を押しのけて紺のAラインのワンピースを買ってきました。ウール100%のシンプルなもの。めっちゃ温かく、ぽっこりお腹も隠せるデザインでした。黒か紺かどちらにしようか迷ったのですが紺を購入しました。紺の方がシルエットが甘めです。

 

このブランドを愛着して早10数年。とにかくお高いのがネックです。でも19歳のときに買った夏用の綿麻のジャケットは未だに来ているし、ワンピースはほとんどが現役です。

ということでそのブランドをダイレクトマーケティングしたいと思います。

www.merveilleh-eshop.com

素材にこだわり、デザインにこだわり、着心地も良い。そんなブランドです。

さて、このウールのワンピース、いつ着て行こうかなあ。

12月3日フェミ勉レジュメ 『女嫌い ニッポンのミソジニー』  ⑤児童性虐待者のミソジニー~⑧母と娘のミソジニー

●児童性虐待者のミソジニー
加害者に同一化するだけでの快楽は浅い。被害者の痛みにも同化できるからこそ、快楽はより複雑になり深くなる。
●皇族のミソジニー
正当性には正当性を与えるものが必要。
創設婚→MBD婚(豪族との結婚)→FBD婚(皇族との結婚)
神武~允恭までは、皇后腹が優先される。安康~持統まででも皇后腹の天皇は20代のうち、7人にのぼる。
天皇の娘は、同族の男と結婚しない場合、斎宮制度を通じて神との盟約を結び、スメラミコトの外部性は保証される。
なぜ創世神話の祖神は女性か?
王権の正当性には外部が要り、その外部を表彰するのが女だからである。
女が殺される可能性が最も高い相手は、夫や恋人である。
女のマスターベーション・シーンがポルノの消費者としての男に性的刺激を与えるのは、その不在の男根の位置に、みずからの男根を象徴的に代入できるからである。
●近代のミソジニー
女という選択されたカテゴリーを選択に変える。そのなかに解放のカギはあるだろう。
●母と娘のミソジニー
ステージママ。
女性性とは、それ自体がメランコリックなのだ。
母を憎むだけで、娘は自分を人非人のように恥じなければならない。なぜなら母は抑圧者でありながら、犠牲者だからだ。
母が母でなくなって初めて、彼女は母親と和解する。

ピンク色、撤収

おはこんにちは。maiです。

この度はフラれまして、ピンク色撤収作業に追われています。

そうは言いつつも、未だに朝起きると、虚無感~~に襲われます。本当にからっぽなんだなあと。む、むなしい……。

ピンク色に染まっていたキャパシティ。ピンクがなくなれば、本当にからっぽ。

とりあえず、キャパシティにいれたものはお仕事。忙しく何も考えていなければ、忘れるだろうと踏んだのです。幸いいまお仕事は忙しい時期なので、無理くりいれて、何も考えない。言葉を放棄する、という喪の作業をしていました。

人間、仕事して、ごはん食べて、眠れていれば、生きていけるものなのですね。お仕事大好き人間になりつつあります。お金も入るしね。

そしてフラれた直後にお休みの日に2.5次元の舞台のチケットをとりました。演劇観るの久しぶり、と思いつつ、自棄にならなかったご褒美として今週末、観劇予定です。

とりあえず予定を入れまくり、ひとりにならないように、そして思考が空回りしないように、忙しなく過ごす予定です。観劇の翌日はフェミ勉です。

やるべきこと、やりたいことはやったので、後悔はありません。それで「私じゃダメ」と言われたら、しょうがない。それ以上を考えないように。

幸せだった日々はちょっとしたサプライズだったと思えば(サプライズは嫌いだけど)、あまり気にもなりません。たぶんこうしていかに言葉にするかとか考えているほうが私の性にあっているような気がします。

私は感じたこと、考えたことを言語化するのが好きなので、それで納得するタイプなので、自分のなかに言葉がない状況って安心できないし、と思って、この早い撤収は私のためであったのかもしれない、と思います。

しかし数日ほど本当に言葉がなくて、つらかったです。まあ喉元過ぎれば熱さを忘れると言いますか。言葉を取り戻していきたいと思います。私の感覚にフィットした言葉をもう一度、取り戻すために。

11月5日フェミ勉レジュメ 『女嫌い ニッポンのミソジニー』 ①「女好きの男」のミソジニー~④「非モテ」のミソジニー

①「女好きの男」のミソジニー(p.7~21)

 ミソジニーとは何か

ミソジニー=「女性嫌悪」・「女性蔑視」・「女性憎悪」 あまりにも自明であるため意識されることすらない 

 

 吉行淳之介永井荷風

吉行淳之介の小説=究極の男性支配を言語的に遂行したテキスト 奥本大三郎「しかし、女性嫌悪思想の持ち主というのは、どうしても女に無関心でいられないのか、その弱点なのである」=男性としての性的主体化をとげるためには女という他者に依存しなければならないという背理に彼らが敏感だからだ=自分を性的に男だと証明しなければならないたび、女という理解を越えた生き物にその欲望の充足を依存しなければならい男の怨嗟

男は内心どこか女なしでやっていきたいと思っている

吉行の小説=描かれているのはリアルな女ではなく、女に対する男の妄想

性の相手が多い場合=権力と金力の誇示

反俗を気取った「性の探求」小説=おどろくほど通俗的なポルノの定石どおりに展開される ポルノグラフィの到達点=女の快楽

性幻想をまきちらかした戦犯のひとり 吉行の作品を読んで女はわかるか?→女とは何か、何者であるべきか、何者であってほしいかについての男の幻想について­=「オリエンタリズム」に共通する

永井荷風=「女性嫌悪思想に連なる作家」 女を別人種と見なしていた

 

 女から逃走する男たち

男の作品を「男の性幻想についてのテキスト」として読めば学ぶことはある

性文学における女とは男の内面が成立する私的な場所

近代女性文学には男という幻想が希薄なことが特徴

対幻想は男の見た夢だった。

 

ホモソーシャルホモフォビアミソジニー(p.23~35)

 男の値打ちはなにで決まるか?

女の値打ちは男に選ばれることによって決まるが、男の値打ちは女に選ばれることによって決まらない=異性愛の秩序は非対称

男は世界の覇権ゲームが好き 覇権ゲームに勝者になれば女は後からご褒美として自動的についてきた 例)昔のホリエモン 

男同士の強い絆=ホモソーシャル

 

 男の連帯の成立条件

ホモソーシャル=「性的であることを抑圧した男同士の絆」

フロイトの「なりたい欲望」と「持ちたい願望」とを異性の親にそれぞれ振り分けることに成功した者が異性愛者になる

同性愛者=「なりたい願望」と「持ちたい願望」の性分化に失敗した者

「あの人のようになりたい」と「あの人を自分のモノにしたい」とは重なり合う=ホモソーシャルのなかにはホモセクシュアルな欲望が含まれ、連続体である

男の歴史は「なりたい欲望」と「持ちたい欲望」の調節に苦労してきた歴史。例)古代ギリシャ

ホモソーシャルな連帯とは性的主体と認めあった者同士の連帯である

ホモソーシャリティホモフォビアによって成立する 女を客体化することを互いに承認しあうことによって性的主体間の相互承認と連帯が成立する

女を自分たちと同等の性的主体とは決して認めない、女性の客体・他者化=ミソジニー

ホモソーシャリティは、ミソジニーによって成立し、ホモフォビアにとって維持される

 

 男は性について語ってきたか

猥談­=男として「性的主体」であるか相互に確認する儀式

男は本当に性について語ってきたか? 問題

男が「男になる」ための同一化と排除はひとりではできない 「差別するのは三人の人間がいる」「差別とは、ある人を他者化することによって、それを共有するある人と同一化する行為である」=性差別の定義にも当てはまる。

 

③性の二重基準と女の分配支配――「聖女」と「娼婦」という他者化(p.37~52)

 ジェンダー・人種・階級

「しょせん、人種がちがうのよ」=わかりあえないとき、わかりあう努力を放棄したとき

サイード:相手を理解不可能な存在として放逐する様式には人種化とジェンダー化のふたつがある 『オリエンタリズム』=「東洋とは何かについての西洋の知」 例)『蝶々夫人

ジェンダーと同じく「人種」も歴史的構築物である=「白人でない者」を排除することで「白人であること」を定義するための装置

トニ・モリスンの指摘:『ハックルベリー・フィンの冒険』でハックの「白人性」の確認のために黒人の逃亡奴隷が不可欠な役割を果たした→「いかにしてほんものの白人アメリカ男性が生まれるか」についての国民的物語・シンボル 白人たちが無自覚なため黒人女性によって白人研究がなされる。

明治時代:「上等人種/下等人種」=「上流階級/下流階級」 例1)娼婦は「下等人種」のなかからうまれ、生来「淫乱」だからだ。  例2)植木枝盛の言行不一致=階級による女の二重基準

 

 「聖女」と「娼婦」の分断支配

ミソジニーのアキレス腱=母 ミソジニーには女性蔑視と女性崇拝の二面性を持っている←性の二重基準

ミソジニーの歴史:近代家族の形成期に産業としての売買春が成立している

性の二重基準=男向けの性道徳と女向けの性道徳が違うこと その結果・女性を二種類に分割 生殖用の女/快楽用の女 そしてこの快楽は男側の快楽である

「分割して統治せよ」=男による「聖女」と「娼婦」の分断支配 例)日本人慰安婦と非日本人慰安婦 例2)国防婦人会の「白い割烹着」

女のセクシュアリティは生殖向きと快楽向きとに分断・対立・疎外されてきた 抑圧と搾取

 

 性の二重基準のディレンマ

性の二重基準→男側にも悲喜劇がうまれる 性の対象として見るか/みないか 愛しているからセックスしないできない?

植木枝盛の言行不一致=用途別使い分け 「身分」は越せない「人種の壁」だった 揺るがない正妻の座

「聖女」と「娼婦」の分断支配への日本での告発=ウーマンリブマニフェスト田中美津の「便所からの解放」

生殖テクノロジーのもとでは「性欲処理機械」/「産む機械」→マーガレット・アトウッド『侍女の物語』が現実に 人工授精・代理母ビジネス

男たちが震撼したのは「しろうと女」と「くろうと女」の垣根が(ほとんど)なくなったことであり、「しろうと女」に性的価値があることを「発見」した

 

④「非モテ」のミソジニー(p.53~72)

 「性的弱者」論の罠

宮台:「セックスの相手を見つけるシステムが『自由市場化』すればするほど、多くの男たちが性的弱者としてあぶれるようになる」

女性の性的弱者は「性の市場」にプレイヤーとして登場すらしない 知的障害を持った女性は女であることを剥奪される一方で、セクハラの対象になる

性の市場に登場するプレイヤーにはジェンダーの非対称がある

「性的弱者」論:弱者は社会現象であり、弱者を弱者たらしめているのは社会の側だから、社会側に救済の責任がある *女性側には反転しない

赤木智弘:自分たちのような性的弱者をキャリアウーマンは「主夫」として養う義務がある 強者男性>強者女性>弱者女性>弱者男性

「性的弱者」論=自由市場を怨嗟・性の自由市場をいくらかでも前提として認める議論は全て「強者の理論」となる

 

性の自由市場

山田昌弘:性の自由市場では「魅力資源」は不平等に分配されているが、社会的資源だけに還元されるわけではない。「魅力資源」は交換価値ではなく使用価値で測られる

性の市場が規制緩和→男にもまた「対人関係の技術」が要求されるようになる

高度経済成長期に日本で初めて「再生産平等主義」=「全員結婚社会」→結婚せずに生きていく選択肢がなかった時代の別名

 

 秋葉原事件と「非モテ

非モテ」が「男性問題」としてとらえられる→2008年の秋葉原無差別殺傷事件 凶行の原因に「非モテ」 K君は努力しても変えがたいルックスを非モテの原因にしていた

性的弱者:現実の女性からかけ離れた「女とは何か」についてほとんど妄想の域に達した固定観念を持っている 「モテ」と「容姿」こそが人生最大の問題・格差社会の根本に位置する

性的弱者である男性は恋愛市場から降りる特権すら持っている 「男から選ばれないおまえは無だ」/「女から選ばれないおまえは無だ」のジェンダーの非対称性

性的弱者:「彼女がいること」がすべてのマイナスから自分を救ってくれる逆転必勝の切り札

「彼女さえいれば」オレは男になれるのか問題→男は男同士の集団のなかで正式なメンバーとして認められることで初めて男になる 女は加入資格ための条件・ご褒美 彼女がいる=女ひとりを所有する 社会的要因を優越していても「女ひとりモノにできな」男は値打ちが下がる

男にとって女の最大の役割は自尊心のお守り役

 

 格差婚の末路

藤原紀香陣内智則の格差婚→DVを理由に離婚

勝間和代の女性がインディであるための三条件:❶年収600万円稼ぐこと❷自慢できるパートナーがいること❸年をとるほどすてきになること ❷の「いい男」の条件に「年収1千万円以上」=「女の年収に対しそれくらいの年収がないと男のプライドがもたない」

 

 「男性保護法」の反動性

三浦展:「非モテ」が現代の男性にとって死活問題・「男性保護法」を提唱

いい女=男につごうのいい女・男性を奮い立たせる女性・母性を感じさせる女性 恋愛と生の自由市場化」に反対→メリットの最大受益者は男性

 

 「男になる」ための条件

現実に、現実の女に興味があるなら、対人関係を持とうと努力するほかない コミュニケーション・スキルが問われる→コミュニケーション・スキルは他の資源のように計量したり蓄積したりできない

三浦:「かつては学校や職場では男性同士がうまくコミュニケーションできればそれでよかった」

友人関係を維持するには高いスキルがいる 定型のない関係へのシフト

「百合作品かレズビアン作品であるか」問題と「これは百合じゃない」問題に共通する不毛さ

 おはこんにちは、2.5次元沼にハマりすっかりお肌ツヤツヤのmaiです。

 今日はお題の通り百合作品かレズビアン作品であるか、という議論の不毛さについてつらつらと書き連ねていこうかと思います。

 まず個人的なことから。

「私はいわゆるバイセクシュアルで、男性を好きになったり女性を好きになったりさまざまです」

 と書くと簡潔でいいんですが、私のセクシュアル・アイデンティティは結構揺らいでいてクエスチョニングというのが一番あっているのかなあ、と考えてみたり、発情装置というか欲情のタイミングが男女で違う私はバイって言ったらなんか申し訳ないとか考えたり。悩みが尽きません。面倒くさい。我ながら面倒くさい。アラサー女がこんなことを言って、もう恋愛市場からは外れているよと嘲笑の声が聞こえてきたりもします。

 もういい。己の自意識の重さは重々に承知している。ならば、女の子を見て癒されよう!! 現実なんてどうでもいい!! こんな感じで百合が好きです、自分でも書いています。

 百合という言葉の語源にレズビアンが該当するのは『性的なことば』でも言及されています。(p.277)

性的なことば (講談社現代新書 2034)

性的なことば (講談社現代新書 2034)

 

  そしてユリイカの百合特集で、天野しゅにんたさんが「レズはひとりでいてもレズ。百合は二人のいるのを外部から見て決めるもの。本人たちがどう思っているかはともかく、外部から見てはじめて百合は百合になる」と森島明子さん発言を引用されています(p.98)。

  私ごときが森島先生に反論とは笑止と思われるかもしれませんが、私は「百合はひとりでも成立する」と考えています。

 その①吉屋信子超大先生のSの精神は「結婚への道」に対する反抗でありました。まさしく女性の自立は革命だったんです(『屋根裏の二処女』は涙なしには読めません)。

 その②「百合はふたり」なら悪しきヘテロセクシズムに毒された)カップル至上主義に百合が陥ってしまわないか、という危惧があります。

 森茉莉さんが「精神が貴族」と言い切ったように「精神が百合(ないしレズビアン)」でだいたいOKなのでは? と思います。

 こうしてみると百合作品とレズビアン作品の差ってほとんどないです。というか差をつけることに何が意味があるのか私にはよくわかりません。

 あとは語感の問題でしょうか、百合だとソフトに聞こえ、レズビアンだと生々しい。また「レズビアン=女性の同性愛者」=セクシュアルな様々な問題を想起させるけど百合はフィクションだからetc……

 くだらん。まとめて女は私の嫁だ!! とも言いたくなります。「百合作品」だろうと、「レズビアン作品」だろうと、表象に囚われず、その本質への心眼を磨くべきではないでしょうか(私はヘテロカップリンも片方を女体化して百合百合させるのが好きです)。

 昔、見たブログで私の大好きな『おにいさまへ…』というアニメが百合じゃないと憤怒されてたことをよく覚えています。「百合じゃないって言って、なにか百合作品・レズビアン作品に貢献することがあるのか?」と疑問を覚えたことがあります。

 「百合じゃないよね、レズだよね」と言って、百合作品・レズビアン作品を貶しているだけはありませんか? 別にどっちでもいいじゃん。作品が素晴らしいなら。と私は思うのです。

 

 じゃあお前はどんな作品観てるんだって言われそうですね。

 とりあえず今年最高の映画『キャロル』はおさえておきたいですね。

キャロル [Blu-ray]

キャロル [Blu-ray]

 

  私は同性の愛情を描いている作品でのアオリで「禁断の~」とか「いけない~」とかが大っ嫌いです。嫌悪しています。『キャロル』はフツーに出会って、恋してでいいじゃない、というところを体現してくれた映画。ラストのほうは小説のほうが個人的に好きです。

 最近、読んだ小説では『西洋菓子店 プティ・フール』が百合要素があって、素晴らしかったです。

西洋菓子店プティ・フール

西洋菓子店プティ・フール

 

  この本はいわゆる「転向」小説(カップリングが百合からヘテロに切り替わる)とも読めるんですが、私はむしろこの無念の「転向」の生々しさへ共感しました。あんなに荒々しい少女だった彼女が、少女であったことの魂を忘れ、ただの(男に愛されるだけの)女になってしまったという無念さ。悲しい。でもそんなこと言っている自分は? と内省を迫られますね! ああ、胸が千々に乱れます……。「転向」小説でもこういう読み方ができると思うのです。

 作品として素晴らしかったら、そこを認めようっていうスタンスです。百合・レズビアンがいかに書(描)かれいるか、その本質を見抜く力が必要だと思うのです。これからもどんどん百合やレズビアン作品を観て読んで感じて、心眼を鍛えていきたいです。

 ということで、今回はここらへんで失礼します。

2.5次元に恋して 本気の好きってなんだろう

おはこんにちは、maiです。

現在2.5次元に恋しています。初めてアイドル(?)にぞっこんラヴ。作法とか知らないので、いろいろやらかしています。ファン友達が優しいんだ、これが。

でも、「本気」や「純粋に」好きってどういうことだろ、と首をかしげています。

f:id:maix44:20160704183326j:plain

「本気で好き」って本当にどういうことなんだろう。まえ知人と感情に純度を求めすぎっていう話もしたし、上に引用した『失恋ショコラティエ』7巻のサエコさんの顔が浮かびました。

ファンだからCDも買うし、DVDも買う。でもこれって彼らの春を買っていることと何が違うんだろう、と思ってしまいます。すごい罪悪感なんです。

確かに踊る推しメンを見て元気になります。笑顔が見れれば画面越しでも嬉しいし、頑張っている姿を見れば応援したくなる。

でも、これって彼らを消費しているじゃない?って思ってまた振り出しに戻る。

消費に耐えて、CDもDVDも全部そろえてできるだけイベントにも顔を出して、それで「本当の好き」になるなら私はその純度を求めたいと思います。でも、なんか違うと思う。それでもこの罪悪感は拭えないと思います。

2.5次元だし、私はあのキャラクターを演じている推しメンが作家主義的に好き、っていうのは単なるエクスキューズでしかないと思うのです。

もう大混乱です。

「~~は私を救ってくれなかった」っていう物言いがありますが、救われるどころか、もう底なし沼にずぶずぶとハマり込んでしまったみたい。抗ってみたのですが、抗ってもこの推しメンが好きって気持ちは変わらないし、苦痛なときもある。まるで嵐のなかにいるようなものです。

もうなるようにしかならないと思っています。いつか熱も冷めるだろし、と諦めが勝っている。熱が冷めたあとのことは怖くて今は考えられません。

私は自分を痛めつけるのが好きなので、この状況すら楽しんでいるっていう業の深さ。度し難いです。

アイドルを好きさんがいらっしいましたら、ご助言頂けると嬉しいです。皆さんはどうやって罪悪感と折り合いをつけていますか?