Don't cry baby,please !!

少女フェミニストの備忘録

泣いてパワーアップする主人公――『映像の原則』から見る『ユーリ!!! on ICE』のヴィクトルと勇利

ども、柳ヶ瀬舞です。

ユーリ!!! on ICE』(以下『YOI』)に今さらドハマりして、通しで10回くらい観たかな…という状態。それでもなお、観るべきものがあるって嬉しいです。

今日はガンダムシリーズを世に出した富野由悠季さんの『映像の原則』を参考に『YOI』のヴィクトル・ニキフォロフと勝生勇利の関係性をひも解いていきます。

 

映像の原則 改訂版 (キネマ旬報ムック)

映像の原則 改訂版 (キネマ旬報ムック)

 

 『映像の原則』とはなんのこっちゃ、という方にまずブログあるブログを読んでいただきたいです。

highlandview.blog17.fc2.com

これは富野由悠季監督の『逆襲のシャア』を観ていないとわかりづらいかもしれません。

簡略化すると、アニメ表現というのは以下のようなパワーバランスで描かれているよっていうお話(上記のブログから画像をお借りしました)。

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上手が強いもの、下手が弱いものっていう認識をしてくだされば、だいたいOKです。

 

じゃあ早速、映像の原則に従って、『YOI』を観ていきましょう。

まず1話。ヴィクトルが勇利のコーチになるよっていうお話でしたね。

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そして2話。

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リビング・レジェンドのヴィクトル・ニキフォロフはは決して右側から動こうとしません。勇利くんヘタレですしね……。

日常パートはだいたいヴィクトルが右側で主導権を握っています。

この安定したふたりのパワーバランスが逆転するのは、7話まで待ってもらうことになります。

第7話「開幕グランプリシリーズ やっチャイナ!!中国大会FS」でメンタルがそうとう弱っている勇利。ヴィクトルはそれに追い打ちをかけます。

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そして勇利が泣いているときは……。

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ヴィクトルが左なんですよね!!!!!!!! 涙は武器だと改めて思い知らされました……。

スケート以外で、勇利が右に来るのはこれが初めてなんじゃないかな?

そして例の婚約シーンも勇利くんが右側です。

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勇利くんが右側になった理由は10話のCパートのバンケットでの勇利のセリフがカギになっているようですね。

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「ビー・マイ・コーチ、ヴィクトル!」のシーンで勇利が右側にいます。もうこの時に、ヴィクトルの心を掴んでいたのですね。魔性の男・勝生勇利。

 

こんな感じにですね、『映像の原則』を知っていると、どのように関係性が推移していくか、観ていて面白くてたまらなくなります。

今回はスケートのシーンは複雑になるので、省きましたが、ヴィクトルと勇利の関係は、映像を観るだけで、十全にわかるということが証明されたような気がします。

百合の対幻想をめぐって――山田尚子監督『リズと青い鳥』

ども、柳ヶ瀬舞です。

年の瀬ですね。ということで(どういうことで?)今年ヒットした百合アニメを観ましたよ。わが憎き京アニさんの『リズと青い鳥』を分析したいと思います。

 

 

 

もうこれ完全に言い訳なんですが、京都アニメーションが嫌い部活もののアニメが嫌い『響け!ユーフォニアム』も一話で挫折した百合好きですよ。映画館で観るのはやっぱり怖かったんで、DVDまで待ちました。

そして先ほど観たら、この監督わかってやってる~~~!!!ずるい!!と思いました。パーフェクト百合でした。まごうことなき百合。完璧百合でした。御見それしました。

希美はみぞれが好き。みぞれも希美が好き。この共依存的なふたりは互いの影になったり光になったりで忙しい。画面があんまりにも静かだからといってこの光と影の交換はいつもせわしなく、希美とみぞれの間で行われているのです。

リズと青い鳥』の類似作品あるかなあと本棚をぼうっと眺めていたら。

水城せとなさんの『ヴァイオリニスト』が目に入りました。

 

ヴァイオリニスト (1) (Be×boy comics)
 

 

 ちょっとBLに興味のない方もいらっしゃるかもですが、お付き合いください。

極(きわむ)と円慈(えんじ)は音大生でヴァイオリン専攻。極は光、円慈は影な存在なのです。ところがある日、有名ヴァイオリニストが円慈の個人レッスンを請け負うことになり、極と円慈の関係は逆転して、やがて……。

みぞれちゃんがね、最後オーボエ吹くじゃないですか。それがね、光になった円慈くんが極の前でヴァイオリンを弾くのと似ていて、精神的に来るなこれは……と重ねて見ていました。

『ヴァイオリニスト』の話は次回ブログでネタバレありで書きます。

 

私が本編観て、考察サイトや検索してみなさん「おおよそハッピー・エンド…?」と感じられているようですが。

私は否!と言いたい。

アイスは溶けてなくなってしまうから=希美とみぞれの関係性は解かれる。お団子だったらよかったんじゃないかな(なんとも的外れな…)。

でもみぞれが「ハッピーアイスクリーム」っていうことは、対幻想が無効化することが幸せなことだ、という暗喩では? と私は思うのです。希美はきっと一般の大学に行くだろうし、みぞれは音大に行くでしょう。

でも度々で申し訳ないのですが、『少女革命ウテナ』みたいに「10年後も一緒に笑ってお茶を飲める」関係にシフトしたのではないのかなって思いました。

学園生活はいつか、終わる。終わりを迎える前に、学園的なものから「さよなら」するとき、やはり対幻想という鳥籠のなかでは生きていけないのでは? だから希美もみぞれも焦っていたんでしょうね、と思いました。

まあ結果は私的には「ハッピーエンド」なので、とても楽しく観れて考えられました。

 

(大掃除をしながら一回観ただけなので、大雑把すぎて見落としているところなどあると思いますので、そのときはご指摘いただけると嬉しいです)

 

さて、もう2018年も残りわずかですね。今年は大変お世話になりました。皆さん良いお年をお迎えくださいませね。

ポリティカル・コレクトネス「私的入門」

こちらでは本当にお久しぶりです…。舞です。今日はポリティカル・コレクトネス(以下PC)についてつらつら私の考えを書いていきたいと思います。入門に私的という言葉とかぎかっこがついているのは、名ばかりの記事になりそうだからです…。頑張る!

 

 

ツイッターでこんなアンケートを取らせて頂きました。PCという言葉がどういう意味を持ち、名詞か動詞か副詞かどうかなどなど…。意味がわかっていれば文章は作れるのです。PCってなんとなくこんな感じ…というイメージを持たれている方も多いと思うので、ここでPCとはどんなものか、一緒に考えられたらなあって思います。

 

まずPCとはなんぞや? Google先生で検索して、一番上にあったウィキペディア教授に聞いてみましょう。

 

ポリティカル・コレクトネス - Wikipedia

 

政治的・社会的に公正公平中立的で、なおかつ差別偏見が含まれていない言葉や用語のことで、容姿身分職業性別文化人種民族信仰思想性癖健康障害)・年齢婚姻状況などに基づく差別・偏見を防ぐ目的の表現を指す

……長いです。が、大事です。あらゆる境遇に基づく差別・偏見を防ぐ表現っていうのが重要です。

なので、「この映画ってポリコレ的にどうよ!?」とか「少女マンガのポリコレ意識って共有しやすい」とか私は使います。

PCとは直訳すると政治的正しさ、とウィキペディア教授も書いていますが、私は「政治的配慮」という、ちょっと固くなっちゃうけど、そんなニュアンスで使っています。差別や偏見はある意味、政治的な問題です。差別や偏見とは何かと考えるきっかけ=配慮となると私は捉えています。

また違う先生にも聞いてみましょう。大辞泉先生です。

kotobank.jp

看護婦さんをを看護師さんにに。保母さんを保育士さんに。日本でもおきたムーブメントですよね。

なんとなく、いいじゃん。差別反対だし、偏見もよくない、ポリコレを支持するぜ!というかたも出てきてくれている嬉しいです。しかし。PCは深刻な矛盾を内部にはらんでいるのです…。

今まであった表現を見直さなければならないという点もあります。例えば白雪姫のキスは男性から一方的に押し付けられたキスである、と主張される方もいます。これもPCです。おとぎ話に何をアツくなる、とおっしゃられるかもしれませんが、私もプリンセス、お姫様になりたい願望があったので、他人事だとは思えませんでした。

PCは今よりよい表現のために、と私は考えています。他人が勝手にひとをカテゴライズせず、どう表現するか、私は模索しています。

まず一緒に考えることからはじめてみませんか?

 

 

追記

www.theheadline.jp

PC的に正しくあろうとすることは疲れてしまうかもしれない、という危惧もあります。ぜひこちらの良記事もお目を通していただければと思います。

「リベラル左派」フェミニズムと「フェミ勉」の進退

おはこんばんにちは、maiこと柳ヶ瀬舞です。

最近は充実した日々を送っています。とある賞に応募する短編小説を書いています。どうにかなってくれると嬉しいと思っています。どうにかなれ。

 

このブログ、更新頻度が少ないですが、Twitterで書ききれないことを書こうと思って始めたので、詳しくはTwitterをフォローしてみてくださると嬉しいです。

最近、自分の政治的な立場というか、自称していた説明しやすい、フェミニスト。というものに違和感を持ってしまい、どんな風に名乗ればいいのかわからなくなっています。

まあ私はわかりやすく言うと「リベラル左派」フェミニストと名乗っていたのですが、この「リベラル」と「左派」っていうのに違和感をもってしまい、使いたくないなーって今は思っています。

まず「リベラル」という考え方。リベラリズムフェミニズムが両立しないことは以前、ブログで言及させてもらったので、そちらを参考にしてください。

maix44.hatenablog.com

上記のブログは「リベラリズムは女性を『私的領域』という概念に無理やり押し込めた」っていうことが言いたかったことです。だからリベラル・フェミニストっていうのは成立しない。

「左派」って言葉も嫌いです、というか使いたくない。政治信念を右左っていうわかりやすい文字で表すのってナンセンスじゃないかなあと日々思っているのです。

歴史的にみたら、フェミニズムと左翼運動って相容れないっていうことが第二の理由です。学生運動は男性「だけ」を解放したって上野千鶴子さんがどっかで書いていましたね。結局、女性という存在はおざなりにされたのが事実。第二波フェミニズムはその影響を色濃く残しています。

わかりやすさでこぼれ落ちていく言葉を丁寧に掬い戻していくっていうのが大事なんだなあと思い、「リベラル左派」フェミニストって言うのは止めたのですが、どう自分の立場を説明すればいいのか。これだけの文字数を必要とするんで、どうしようと悩んでいます。傍流のフェミニストか。はたまた荒野のフェミニストか(ネタです)。結局のところただの(多くの誤解を招いている)フェミニストとして表記しています。多くのひとがわかりやすさを求めすぎているっていう状況にちょっと辟易しています。言葉を使うっていうのは難しいものだと思うのですが…。

 

フェミニストっていう使うのが難しい言葉に関しては以上です。

 

最近フェミ勉を主宰として開けていなくて、申し訳ないと思っています。すみません。フェミ勉をどうしたらいいか、悩んでいます。

話だけ聴きたい(マイクがない・多忙)という方が多くいらっしゃって、ニコ生でやるべきかどうか…みたいに考えてみたのですが、やっぱりskypeだけでやるべきなのかなっていうところで悩んでいます。

ジェンダーフェミニズムの知識の共有」を目的としたこの読書会的な勉強会的なフェミ勉。私は話し言葉を使いたいと思っています。話し言葉は書き言葉より縦横無尽に飛びます。そこを大事にしていきたいなあということ。

そして聴くことだけを目的とすると、参加者のみなさんの「話し言葉の強奪」にならないか、という点が大きいです。

その二点を踏まえて、とうぶんフェミ勉は凍結したいと思います。どっちも選べないっていうのは不自由・不便なことですね。申し訳ございませんが、どうぞご理解いただければ、と思います。

母性というファシズム――少女フェミニストの苦言

Metoo運動や女性専用車両アンチへのタグがTwitterで流行っていますね。これが一過性の流行りではなく、性暴力を失くす運動に繋がってくれればと思っています。

今回のブログは、非常にセンシティブで扱いづらい、母性とファシズムについて書こうと思います。

私のTwitterで起こったことをやっと文字化できると思って書きます。

私はあるアイドルを応援するためのサブカルTwitterアカウントを持っていました。アイドルを応援するためのアカウントだったので、政治的な発言も控えていましたし、する必要もないと思っていました。

そこで一瞬だけ浮き出た政治的、きわめて政治的な発言を今でもありありと想起させられます。

ある女性が「子どもに(性的)いたずらをするヤツは、死刑になればいい」と発言したときに「賛成。死刑にすればいい」というリプライがつきました。

私はこれにぞっとしました。

そんなこと当たり前じゃないか、というかた。どうぞもう一度考え直してください。私は性暴力の加害者を擁護したくてこんなことを書いているのではなく、本当は彼女に問いたかったのです。

「あなたのお子さんが性犯罪者になったときに、同じことを言えるのか」と。

私は一連のツイートで母性というファシズムを実感せざるをえなかったのです。リプライをつけた方はまさしく「お母さん」でした。

ここで私自身の経験を持ち出すのは卑近な例かもしれませんが、少し書かせてください。

小学生高学年のとき私は性被害にあいました。神社で遊んでいるときに「指を強く噛んでくれ」と言われ逃げられなくなってしまい、男性の指を噛みました(指を強く噛むことにどんな性的な意味があるのか、私は未だにわかりません)。

そのとき神社で遊んでいた親のいた5名くらい子どもは、親に守られていました。そのとき私は悟りました。「親と言っても『自分の子ども』以外を守ってくれる大人なのどいないのだなあ。私を守ってはくれないのだ」と。私の経験した性被害は守るのは「自分の子ども」だけというわかりやすい母性の表れかたをすることを悟りました。

時を経て、私はフェミニストになったのですが、この経験は私にとって根深いものとなりました。母性というありもしない幻想は信じちゃいけない。そしてそれを盾にしたときどんな悲劇が起きるのか、よく考えなくてはいけないと思うようになりました。

愚民社会

愚民社会

 

それは要するに「子どもたち」と言いながら、自分の子ども以外に、あるいは他者に普遍化できていないんです。西のほうが安全ということで広島に疎開した人間がけっこういますけど、それってかつて被爆地であった広島側から見るとちょっと無神経かもしれない、とは感じないのか。

(p.123) 

 この対談は3.11以降に行われた本の一部です。

私は大塚英志さんのこの言葉に実感をもって頷くことができました。私はTwitterで起きた事件はまさしく母性というファシズムだと確信しています。他者の存在を鑑みないで母性を振りかざすとき、それが国家という水準に無条件に結びついてしまうとき、日本はろくなことが起こらなかった。「銃後の母」(まさしく母性)という言葉がうまれたことも胸に留めておく必要があるでしょう。

ここである懸念――杞憂であればいいのですが――が生まれます。それは女性の分断です。子を持つ女性/子なし女性という分断が容易に行われてしまうということです。「あなたは子どもがいないから、切実な訴えがわからないのだ」と言われたら、私はその感情に対し理論展開ができなくなります。私が訴えたいのはそうではなく、性暴力を本当に根絶させたいなら女性同士が連帯する必要があると思います。それは母性ファシズムではできないと思っております。

母性というファシズムは母子の一体感と、他者を排除し、想像力を失うことだと思っています。これをつまびらやかにしたひとは少ないです。それだからこそ私は書かなくてはいけないと思いました。

たぶんTwitterで「死刑にすべき」と言ったかたは、それに賛同したかもそれがどんなに政治的な意見か、たぶんわかっていないと思うのです。しかし私を窒息させるには十分な言葉でした。

母性を持っていると自負されるかた。どうぞ自分の子どもだけを守るだけじゃなく、他の子どもも守ってあげてください。Metoo運動もアンチ女性専用車両へのカウンターも参加されてください。

再度、書きますが母性を振りかざした瞬間に母と子/それ以外の人間、という対立が生まれてしまいます。それは多くの他人を不幸にしてしまう可能性があることを忘れないでください。

解体される主体と愛の夢 ――2.5次元から少し離れて

今、私はアルスマグナから距離をとっています。なぜそういう状況になったのか私自身すごく困惑しました。しかし今はそれを言葉にできると思います。

 

その時は唐突に訪れました。

トーマス・マンの『魔の山』の上巻を読み終わった時でした。

魔の山〈上〉 (岩波文庫)

魔の山〈上〉 (岩波文庫)

 

 この小説はサナトリウムを舞台に第一次世界大戦前いかにヨーロッパが病んでいったかを書かれた小説であり、また時間の認識の仕方も書いている本です。

上巻が読み終わり背表紙を閉じたときに、私はアルスのことが頭に浮かびました。その瞬間にアルスとともに過ごした時間がヴィデオのように巻き戻されそして早送りされました。ほんの一瞬の出来事でした。

そしてレディオヘッドの代表曲である「CREEP」の何気ない一節、I do't belog hereという歌詞が思い浮かび、私はアルスのファンを、少なくとも公言することを辞めるべきだと思いました。

Creep

Creep

 

 

I do't belog hereの訳は「ここは私の居場所じゃない」「ここにいない」などと訳されますが、わたしは「ここに属していない」というふうに訳します。私はアルスに属していない。またファンダムの世界にも私はいない、と思い焦りました。

あれだけの時間を費やし、あれだけの空間を共有したのに。夢が終わるときは本当に一瞬なのだな、と冷静に思いました。そしてアルスから離れることこそが夢で、私はまた違う夢を見ているのでは、という胡蝶の夢ではないだろうかと思いました。

私にとっては大きな転換が予兆もなくたった一瞬でなされたことが震えあがるほど怖く、そして諦めに似た、覚めるできときが来たのだなという思いが駆け巡りました。

私はアルスマグナを通して、見るべきものを見、聴くべきことを聴き、感じるべきことを感じ、考えるべきことを考えました。その時間はまさしく「愛の夢」であり、幸せでした。苦悩すら愛おしいくらいに。

話は変わりますが、つねづね今を生きるひとという主体は解体されているのだなと感じています。

「男性らしさ/女性らしさ」「文化/自然」「異性愛/同性愛」「公/私」「善/悪」「快楽/苦痛」etc。矛盾するふたつの間を綱渡りのように、均衡を保って少しづつ歩んでいる、と。私も例外も漏れずそのひとりだと思います。

ふたつに引き裂かれる状況に耐えられない、と私は感じました。多くのひともまたその状況に耐えられているとは思いません。みんなどこかに「ライナスの毛布」を持って現実に立ち向かっている、と私は実感しています。

私はアルスマグナにハマる前はとても張りつめていました。私は私の小説を書けないということに苛立っていました。バランスを保てない状態で、私は綱が切れたように落ちて行ったのが、アルスマグナという「沼」でした。

その「沼」はもしかしたら、違法ドラッグだったかもしれなかった、危険な新興宗教だったかもしれなかった。簡単に抜け出せない、まさしく沼が、アルスマグナで良かったと思っています。法律では禁止されてはいなし、害は少ないからです。

そのアルスの「沼」の中でも私という主体は引き裂かれていました。「現実/夢」「愛/憎悪」「資本制/反資本制」ここでも「快楽/苦痛」etc。

分け隔てられ、どこまで行っても交わることがないふたつたち。でもそれが私の本質であると確認して、受け入れられたのが、紛れもなくアルスマグナという存在でした。

ライナスの毛布」はいつか手放さなされるときが来ます。私の手放すときは、上記のときでした。私にとってアルスマグナはまだまだ愛する存在です。でも毛布がなければ感じることも、考えることもできないという状況からは、脱することができた/脱さなけらばならなかった。

私はアルスのおかげで二元論のなかを再び泳げるようになりました。二元論の与える重圧が心地よいと思えるくらいに。

「イン(陰)とヤン(陽)。光は暗闇の左手……これはどういう意味だろう? 光、暗闇。恐怖、勇気。寒、暖。男、女。これはあなたのことだ、セレム。二人であり一人である。雪上の影」

アーシュラ・K・ル・グィン 『闇の左手』(p.321)

闇の左手 (ハヤカワ文庫 SF (252))

闇の左手 (ハヤカワ文庫 SF (252))

 

  ふたつに引き裂かれた私はひとつであるということ。私に再びそれを気づかせてくれたのがアルスマグナ。私は愛おしい気持ちとともに、懐かしさを感じて彼らを応援したいと思っています。

5月7日の文学フリマ東京に出展いたします。

みなさん、おはこんにちは。管理人のmaiです。

今月は宣伝ですみません! 文フリ東京に参加を致しますので、そのことに関して書かせて頂きます。

スペースはエ 37となっております。どうぞ皆さんのご来訪をお待ちしております。

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『Le Baiser de Lis』 500円 

渋谷センター街から少し離れたところにある、女性限定のバー・Le Baiser de Lis。 Le Baiser de Lisではさまざまな女性の感情が交差する。 百合短編連作小説集です。

収録作品
Apéritif ヴァン・ショー
Un ジントニック
Deux ロングアイランド・アイスティ
Trois ジャックローズ
Quatre コロナ・ビール
Cinq ウィスキー・オン・ザ・ロック
Six レッドアイ
Sept マティーニ
Huit マルガリータ
Neuf ミスティ
Dix アラウンド・ザ・ワールド
Digestif マスターの多忙な一日(書きおろし)

A5/オフセット本/96ページ
発行日 2017年 5月 7日
印刷 ちょこっと製本工房さま

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『残響、消えるまで』 300円

待つこと。
祈り
ジャスミンの花
残響、消えるまで(書きおろし)

A6/オフセット本/70ページ
発行日 2017年 5月 7日
印刷 ちょこっと製本工房さま

 

既刊の『CLUB NAKED』も頒布予定です。

また、通販も予定しております。5月7日以降にてBoothにて通販予定です(pixivIDが必要となります)。

donotcry.booth.pm

どうぞよろしくお願い致します! 会場で皆さんにお会いできるのを楽しみにしております。