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Don't cry baby,please !!

少女フェミニストの備忘録

「才能」という名の亡霊――小説を書く覚悟

 いま私は新人賞に応募する用の小説を書いています。大事なのはそこで「選ばれる」ことではなく(もちろん1000倍以上のの倍率を潜り抜け選ばれたらすっごくすっごく嬉しいですが)、とにかく書き上げることを目標にしていることです。それが私に課した義務だと思っています。さきのことはどうなるか、わからないですからね。書き上げることなく不慮の死を遂げる可能性だってありますし。書き上げるまでは死なない、が私の目標です。

 

 友人のMさんから、小説を書く才能とは? というご質問を頂いたのですが、私は才能なんてないので、この質問はナンセンスだとまず言っておかなければいけません。私はまだ(プロの)小説家にはなれていませんから(自己暗示はかけていますけど)。私の知る範囲では、小説は書けます。忍耐と体力と孤独に耐える力と自分自身を信じることができれば。それに私は才能という言葉が嫌いです。

 まず才能があることと、才能を磨くことと、才能を他者から認めらることは全く違うことです。しかもこの才能というやつで、そのひとの人格を嘲り、崇拝したり、貶したり、褒めたたえたり。まったく無意味なことです。私はこの質問から羽海野チカさんの『ハチミツとクローバー』を思い出しました。

 

 『ハチミツとクローバー』の登場人物たちは、みな才能という亡霊に取りつかれています。それでも懸命に生きようという必死さに胸を打たれます。

 「何か残さなきゃ生きる意味がないなんて、そんなバカな話があるもんか」

 あるキャラクターに羽海野さんは言わせます。過剰に生産性(私たちが生活している上での労働からリプロダクティブまで)を意識させられる昨今、この言葉は非常に多くの方々に届いたでしょう。

 何かを残す必要なんてないんです。ただ自分が忘れられる覚悟をしていれば、怖いことなど、何もないと私は思うのです。

 私は、何度も言いますが、自分に才能があるとは思っていません。ましてや他人から認められるものは、持っているようには思えないのです(そもそも私の「所有」しているものの少なさよ!)。

 私はいい歳のおばさんなので、諦めることがうまくなりました。諦めは人生における洗練だと思うのです(ドント・トラスト・オーバー・サーティー!!)。どんどん諦めて、それでも執着することとは何か? 私には書くことがそれでした。届かない想いを抱き続けることは私にとっては日常でした。それが書くことに代わってもなんら苦痛ではないです。書くことは私にとって叶わないと分かっているような恋をすることです。

 とにかく制約なしで(私は「やさしい百合物語」を書こうと努力してきました)、自分のやりたいようにやろう、と決めてから(決めるまでずいぶんかかりましたが)、私は楽になりました。

 たとえ、私のことを忘れ去られてもいい。

 たとえ、私が書くものが打ち捨てられてもいい。

 それでも私がいま祈りのように書いている小説は決して無駄ではないと盲信しています。

 信じる力は想像力に直結すると思います。私はただ自分の今まで触れてきた物語たちへのささやかな恩返しができればいいのです。

 まあ偉そうなことは書きあがってから言うべきですよね。これがまたロンギング&ワインディング・ロードだから困ったものです(本当に……)。とりあえず書くことだけは覚悟が決まったといいましょうか。それは私の義務のひとつかもしれません。

 とりあえず今日もちまちまと書いていきたいと思います。そんなmaiでした。

第6回 フェミ勉まとめ

 5月27日に行われた、第6回フェミ勉のまとめとなります。課題図書はヤマシタトモコさんの『HER』とよしながふみさんの『愛すべき娘たち』でした。

 今回はJさんがまとめてくださいました(Jさんありがとうございました)。主催含め7名が熱く、時には脱線し、さまざまな話をさせて頂きました。参加された皆さま、本当にありがとうございました。また次回のフェミ勉も開催したいと思いますので、どうぞよろしくお願い致します。

 

第6回 フェミ勉 課題図書「HER」と「愛すべき娘たち」

主催者によれば、今回漫画を選んだ理由は、スピヴァク読解から見えてきたシスターフッドへの懐疑を問い直すためということ。
 
HERに対しては、リアルな時代的感性(ファッションセンス、嫌な男等)を読み取った人が多く、年齢に応じた同調圧力や自意識を息苦しく感じ理解の限界を人もいた。後述の愛すべき娘たちと比べて、作者の出自が庶民派であるためか、エネルギーに満ちた女性に焦点が当たることも多い。すべての厄災は母親に由来するという言葉がキーとなっているということで一致。議論は実際の母と娘の関係に移ったので、男性陣しばらく沈黙して拝聴。
1.母親と娘の議論
父親の不在と母親との葛藤のない関係が描かれている。実際にはドライでありながら、子供を自らの投影とみなしていたりするアンビバレントな側面がある一方、一時期は完ぺきにも思える存在でもある。
父子関係と母子関係の違いは、父親は成長することで殺すこと(相対化)ができる存在であるが母親は殺すことができない。しかし一度は殺しつくすことを志すべきである。
他人も母親との葛藤を抱えていたと知ること自体に、安心感を覚える。
密着型の母親像と放任型の母親像の乖離は、父親と子供の関係に影響される。
愛すべき娘たちの母子家庭や虐待のケースにおいては、父親の存在は影ながら大きな役割を担っている。
母と娘の距離が適切でない場合、父親と母親の関係に問題がある場合がある。
母親は娘に認められたいと思うのでは?
父親不在の物語は、大人になりたくない読者の気持ちを反映する。
大人になるということは、大人になるということに拘らなくなることなのかもしれない。
大人になれば服装も自由になれるが、長子であることの責務等ものしかかってくる。
2.閉鎖的な地域社会や家父長制の「呪い」についての議論
祖父母世代と比べて、社会情勢の変化等あるが、基本的には目に見えない形で(例えば経済的な問題、「分骨」は是か非か、介護の担い手問題)に存在している。血縁関係の難しさ
シスターフッドは血縁に依らない。
キブツミクロネシアの例も一種のシスターフッドではないだろうか。
しかしここで問題なのは、家父長制ももともとは相互扶助の枠組みだっただろうということで、今それが抑圧的になっているのは単に時代に合わなくなってきているという相対主義だろう。
抑圧的な側面は、例えば血縁関係は替えが効かない分、失敗すると取返しがつかない。
例えば良い嫁であろうとすることといい母であろうとすることは矛盾する。
結婚する目的は子作りであるなら、出産に数十万もかかるのはおかしいので、出産に合理的根拠はなく、少子化の現状もまた必然なのかもしれない。
3.階級としてのHER
這い上がるエネルギーはカーストによって違う。
バイトでグランドピアノを買った人と比べて、親のお金で大学に行った自分は、人間的に弱いのではないだろうか?という疑問。
一方でHERケース5の貧しい家庭に育った主人公は、生活も心もゆとりがある女性に対して劣等感を抱いている。
 
感想
以上がフェミ勉で話された内容で、メモできた部分の要約です。
1~3の部分はそれぞれ別の問題提起をしているとともに、同じ問題について語っていますが、特に興味深く思うのは、2の「キブツミクロネシアの事例も、いずれは現在の家父長制のように抑圧的になるのでは?」という疑問を全員が共有していた点でした。
この漠然とした問いは、シスターフッドそのものへの懐疑というより、よくある類の現代社会への懐疑なのでしょう。
いかにしてこの懐疑を超えたところに、シスターフッドを見出していくかが今後、問われていくのだろうと思います。

第6回5月27日フェミ勉レジュメ『HER』『愛すべき娘たち』 シスターフッドと「世界の決まり」

今回のフェミ勉はインターバルと称し、ヤマシタトモコさんの『HER』とよしながふみさんの『愛すべき娘たち』を取り上げます。

 

HER(Feelコミックス)

HER(Feelコミックス)

 

 

 

愛すべき娘たち (Jets comics)

愛すべき娘たち (Jets comics)

 

 

スピヴァクの復習からしたいと思います。

スピヴァクは西洋フェミニズム第三世界フェミニズムの関係にシスターフッドはなく、シスターフッドという概念は欺瞞に満ちていると書いてありました。

果たして本当にシスターフッドという概念は欺瞞に満ちているのか、欺瞞だけが存在するのか、私には大いに疑問です。シスターフッドという概念を探りたく、この二冊のマンガを取り上げさせて頂きます。

 

『HER』の第三話にこんなくだりがあります。

…花を好きなのを黙っていたことも名字が嫌いなことも2年もすれば忘れて

その三年後には今気にしているようなことはどうでもよくなる

…その5年後16歳の自分が大切なものをドブに捨ててきたことに気づく

――……何それ 予言?

人類にあまねく降りかかる呪い 世界のきまり

ナイスなおばあさんが女子高生に説くシーンです。私は雑誌掲載のときこれを読んで、このシーンの印象をよく覚えています。

登場人物の女子高生・西鶴は実生活に少しの違和感を持って過ごしています。その悩みをくだらないと切って捨てるには、あまりにも物分かりの良い大人です。ナイスなおばさんがそう言うのは、自分の経験に裏打ちされたものだと、分かるはずです。

私はここでシスターフッドというのを感じました。またナイスなおばさんはこうも言います。

 永遠に孤独だけど 孤独なのは 自分だけじゃないし

繋がらずに生きては ゆけないから 終われない

それも世界のきまりよ 安心でしょう

 

対等なもの同士が絆を築くわけではありません。むしろ対等なもの同士という言い方に違和感を私は覚えます。本当に対等なもの同士というものが本当に存在しているか、謎です。立場が違うもの同士が絆を築けるからこそ、シスターフッドと言うのではないでしょうか。

 

また5話ではこんなモノローグがあります。

 あなたが欲しいと言った かわいい顔なんていらない

あたしはあなたのような 女の子に生まれたかったのです

 

この5話での主人公・花河はいわゆるもてるために努力している努力している可愛い女の子です。仕事をばりばりこなす本美に愛憎を抱いています。これもまたひとつのシスターフッドとらえることができるのではないでしょうか。愛の反対語は無関心です。花河はそのことをよく知っています。だからこそ、憎悪を抱いてしまうほど、本美に惹かれていることを認めることによってこの話は終わります。

 

『愛すべき娘たち』にも触れてみましょう。

麻里と雪子は母と子で長い間、暮らしていたが、麻里は雪子より年下の俳優のたまごである大橋と結婚することになります。雪子は麻里に騙されていると忠告しますが、麻里は頑として聞きません。一緒に暮らしていって雪子は大橋がいい青年だと知りますが、腑に落ちません。そして家をでていくことを決めます。

 たとえどんな男だって麻里さんを雪子さんから取っちゃう男は 雪子さんは駄目なんだ

そうよ! ずっとあたしだけのお母さんだったのよ

 

雪子は泣きながらそう告白します。そして麻里が雪子にもたれかかる場面でこの話は終わります。

母と娘というのは関係を説明するのは難しいものですが、ここには淡いシスターフッドを感じることができます。母と娘というのは原始的なシスターフッドの関係性を見出すことができると思います。

 

また4話でもシスターフッドを見ることができます。主人公の「私」と牧村と雪子は中学時代、友だち同士でありました。牧村は生涯、民間企業で勤めあげるということを目標にしていましたが、牧村は家庭に入ることになりました。その背景には家庭内暴力がありました。そのことに「私」は後年、気づくのです。「私」は雪子の葉書で涙を流します。

 あの時話した ささやかな夢をかなえた事のできた

友達がちゃんといてくれたんだ

 

必ずしも同じ傷を持つ者同士が連帯するわけではありません。差異があるからこそ、シスターフッドを築けるのです。互いにその立場で振る舞うことが傷つくことになるかもしれませんが、それでも繋がらずにはいられないのが人間です。その立場から頑張っているから、私も頑張れるのだ、ということを日々感じています。

 

今回レジュメで取り上げられなかった回もありました。いろいろと皆さんのご意見を交換したいと思います。

第4回3月25日 フェミ勉まとめ

 3月25日の第4回フェミ勉のまとめをMさんがして下さいました(書記に徹し、フェミ勉の縁の下の力持ち的なMさん、いつもありがとうございます)。

 フェミ勉の模様をMさんのお言葉でお伝えさせて頂きます。

 


まだ春の蕾が幼き頃に第四回フェミ勉は開催されました。

 

まとめ 

 

一般に思想の難解度は、その内容に起因する。そのため難解な思想内容は、そうであるほど、明晰で平明な表現によって伝えられねばならない。その典型が数式を用いた表現である。そこでは多少の訓練を積むならば誰もが一致した内容に到達できるはずである。
ところが、このような常識が通じないのがスピヴァクという思想家である。

 

スピヴァクの思想にあっては内容はともかく表現そのものが難解なのだ。もちろんスピヴァクの表現が難解であるのは、スピヴァクによる意図的なものである。
それでは、なぜ、スピヴァクは、かくも難解な表現を、あえて用いるのか。
フェミ勉第四回は、スピヴァクにおける内容と表現との、このような奇妙な捻じれともいうべき問題について議論(されるはずであった?)。

 

上記の問題を考えるために読書会ではポストコロニアルの状況が提起された。
先進国と呼ばれる社会に我々は生きている。だが先進国で生きているという前提を、あまりに我々は自明視している。そのため、いわゆる「第三世界」の存在とりわけ、その世界における貧しい女性や子供の存在を思考できない。それゆえ先進国における我々の思考の前提を疑うこと、そこから始めねばならない。
ならば我々の思考や言葉を捨て「第三世界」の人々の立場に立てば良いのだろうか。そうではない、というのがスピヴァクの思想である。
(スピヴァクは、そのためにデリダによる脱構築という方法を採用する。デリダの方法とはシンプルに述べるならテクスト主義、つまりテクストの外側に「現実」がある、という見方を疑問視するものだからである。ここでの「現実」とは、我々の思考や言葉が自明視する「第三世界」の女性という存在である)。

 

さらには「第三世界」と我々という、この彼我の差異そのものを疑う必要がある。既にグローバル化のなかで人々は国家の枠を超え流動化している。グローバル化は従来の先進国の内部に「第三世界」とも呼べるような貧困化の状況を作り出しつつある。

 

それならばスピヴァクの叙述の複雑性は、どこに由来するのか。
まずは、我々の思考そのものがもつ自明性を疑い、その思考に隠れた権力性を暴くことの必要性、しかしながら我々の思考から離れた外部として安易に女性や子供を見出すことへの疑問視、さらにはポストコロニアル状況としてグローバル化における豊かさと貧困とが混交された状況にあっては、すでに我々の思考の外側など容易には存在しないこと、以上の思想的状況的問題を反映するためスピヴァクの叙述は複雑化せざるをえない(=異種混交性)、というのがフェミ勉で指摘されたことである
(もちろん帝国主義の段階においても状況は複雑だった。宗主国と植民地という対立図式が、植民地での女性の問題を見えなくするからである。またフェミ勉ではアルチュセールの重層的決定との関連も示唆された)。

 

スピヴァクの認識を受け入れるなら我々の思考が「第三世界」の女性たちに沈黙を強いるのは必然的である。ならば我々が「第三世界」の人々について語ることはできるのだろうか。とりわけ男性社会を自明視する男性が女性を語ることができるのだろうか。フェミ勉の話題は、この問題に進んだ。

 

だがしかし、まとめとしては、いささか冗長にすぎた。もとよりフェミ勉では、あまりに任の重すぎる問題である。そのため、この問題は各人に委ねることにしよう。

第5回4月29日フェミ勉レジュメ『現代思想ガイドブック スピヴァク』第二章から第三章まで(p.47~118)

フェミ勉次回の開催は4月29日夜9時からです。課題図書はこちら↓

 

ガヤトリ・チャクラヴォルティ・スピヴァク (シリーズ現代思想ガイドブック)

ガヤトリ・チャクラヴォルティ・スピヴァク (シリーズ現代思想ガイドブック)

 

こちらの第2章から第3章までを読んでおいてくださいませ!

以下レジュメです。7000字以上になってしまってすみません。 

 

第二章 脱構築に仕事をさせる(p.47~77)

 

スピヴァクの重要な概念源泉=ジャック・デリタ 哲学概念の一貫性と安定が差異と二項対立のシステムに依存 スピヴァクデリダ読解を検討し知的・政治的文脈に位置づけ 『グラマトロジー』の翻訳<脱構築的思考を「第三世界」女性の政治運動・ポストコロニアル文学研究・グローバルな開発への批判=スピヴァクの独自性

デリダ脱構築的戦略の基本 ポストコロニアル知識人たちにとって脱構築的戦略が生産的なのは非西洋社会の服従・略奪・搾取を説明 正当化してきた哲学的伝統を問い直す理論的言論・概念枠組みを提供 スピヴァク=デリタの軌跡を追う→植民地主義・グローバル経済の言説・「第一世界」と「第三世界」の国際的労働分業まで有効な批判を介入←デリダの思想が潜在的に有用

 

 『グラマトロジーについて』への「翻訳者序文」(p.51~52)

『グラマトロジーについて』(1976) スピヴァクの「翻訳者序文」は英語圏でデリタがあまり知られていなかった時期に書かれたもの デリダ初期の仕事に影響を与えた哲学論争を解説・知的文脈を提示(ex.ニーチェによる真実の批判・フロイトの記憶と無意識に関する理論・ハイデガーの存在に関する問い・レヴィナスによる倫理の再考・ソシュール、バルト、レヴィ・ストロースの構造言語学ラカン精神分析フーコーの言説分析)→「翻訳者序文」はデリダの思想に関して発表された哲学論文に匹敵

「翻訳者序文」が後の学者たちの研究において問題や論議を予期 正統的な哲学的デリダ批評とは異なる→西洋哲学の脱構築を使って、植民地主義の文化遺物に関する「第三世界」知識人の間で議論を拡張、発展・「第一世界」の多国籍企業による「第三世界」労働者の搾取の継続に関して西洋マルクス主義思想を活用・「第三世界」女性の歴史や生活、闘いを記述するのに西洋フェミニズムがふさわしいか問い直す

 

 脱構築ポストコロニアル的文脈(p.52~56)

スピヴァクは政治的関心をインドにおける英国の植民地教育システムを若いころに経験したことと結びつけている 「デリダは哲学の伝統を外側からではなく内側から壊そうとしている」 デリダの知的プロジェクトに向けられたスピヴァクの関心→西洋思想の伝統を掘り起こす思いに動機付けられた

 ヤング『白い神話』→フランスのポスト構造主義論の多くはアルジェリア独立戦争によって影響を受ける フランスの知識人にとってのアルジェリア独立戦争 ヤング、脱構築が知的歴史の不可欠な一部であると主張するあまりデリダの生い立ちを強調しすぎる バーバのポストコロニアル理論←スピヴァクとは対照的

 

 脱構築と他の諸世界(p.56~60)

ヤング、バーバの理論の萌芽は「翻訳者序文」に見ることができる デリダの概念構成が西洋的哲学の脱構築が西洋的人類学の批判に関係付けられている→「文字の暴力」 レヴィ・ストロースの書いた論文「ライティング・レッスン」 ナンビクワラ族

抑圧された人々に代わって語ることで、人々の声を沈黙させてしまう西洋知識人の共犯性を強調

サバルタンは語ることができるのか?」 ブバネシュワリ・バドリの自殺の解釈

 

 脱構築と概括用語(p.60~63)

スピヴァクは概括用語がカタクレシス、不適切な用語であると主張→あらゆる表象しようとする デリダの西洋形而上学脱構築が「なんらかの政治的プログラムを基礎づけるものではないが、しかしながら『労働者』とか『女性』といった概括用語が文字通り指示対象をもたないと示唆する点で、脱構築は政治的な安全装置となる」

政治的代表行為の文脈におけるスピヴァク脱構築の利用→サバルタン集団の生活に政治闘争の普遍的言説が潜在的に害をもたらしえる

 

 脱構築と倫理(p.63~68)

フランス語で政治が言及されるときの2つの意味の二項対立をめぐって展開されていたと指摘→政治性と政治活動 デリダ初期と後期の著作の差異をもっと慎重に検証すべき

デリダ初期「この問題を守り維持する機制が働いている」→後期、この守備と維持の機制に変容が生じて「完全な他者への呼びかけ」への転換 

デリダ、倫理に対する強い関心 レヴィナスを根底に

 

 スピヴァクの思考における脱構築的読解(p.68~73)

理論とその批判対象との共犯関係を脱構築が肯定すること→最大の贈物 「探求をおこなう主体の権威を、その主体の機能を保持させたままで問い直すことできる」 

サバルタンの文学的表象」(1988) インドにおける国家独立闘争での反植民地的異抵抗運動の指導者達が民衆に会立てた社会主義的・民主主義的公約を検討 反植民地運動が利用した母なるインドという神話が、厳格な階級制度を温存し下、層カーストサバルタン女性の窮状を無視と指摘

作家モハッシェタ・デビ『乳房の与えしもの』のテクスト分析→ブルジョアイデオロギー的構造物である母なるインド神話の限界 ジョショダの身体→脱植民地化が敵視していたはずの植民地的な階級・ジェンダー構造が脱植民地化の罠となって独立後も反復される事実

帝国主義と性的差異」(1986) 西洋フェミニストが普遍的なフェミニズム的主体を構築することで、「第三世界」女性の特殊な経験を無視していると批判 「さまざまなフェミニズム批評や実践が、他の言説による実践と同様、一方においてそうした実践の場を作り出しながらも、同時にその生産現場の力関係によって構築され、特徴づけられていることを忘れるべきではない」 西洋フェミニズムと「第三世界」の女性たち

スピヴァクの批判者 アッシャ・ヴァラダラジャン スピヴァクの「容赦ない共犯性の暴露」が実は実際にはスピヴァク自身からの政治的抵抗の機会を奪っている? スピヴァクの議論をおぎなうことができるのはアドルノ? ←デリダ脱構築が持つ倫理的次元とアドルノの批判哲学との類似性を無視

 

 倫理、政治そして「脱構築に仕事をさせること」(p.73~76)

脱構築に仕事をさせること」 デリダの思想を慎重にまとめ、倫理的・政治的立場を展開 デリダの著作において西洋哲学言説の概念限界から「倫理とその政治との関わりへと焦点」が移動

デリダによるレヴィナス論 倫理的脱構築は時間がかかる・脱構築を周到に思考し実行したとしても政治状況に変化をもたらすという保証はない

サバルタンに対する倫理的でかけがえのない関係を作り出すために」必要な「辛抱強い労働」 

「新しいインターナショナルについての覚え書き」(2001) インド、バングラデシュの田舎の学校で貧しい特権のない子どもたちに識字教育を奨励する教員養成プログラムに関わった経緯 デリダの「ゆっくりと読んでほしい、たとえ政治的危急なときでも」という訴えを引きながら、スピヴァクは抑圧された者たちのために語るよりは「彼女たちから学ぶことを学習するという辛抱強い仕事をしてほしい」

サイモン・クリチリー 脱構築の袋小路 「倫理から政治」への道が閉ざされてしまう

 

 

第三章 サバルタンから学ぶ(p.79~118)

 

ヨーロッパの植民地主義によって搾取され権利を奪われた歴史を持つ個人や社会集団の体験・歴史を記述するふさわしい批評言語を見つけようという努力 概括用語ではなく 

支配的な政治言説によってあらかじめ定義されないさまざまに異なる主体の位置を捉える単語=サバルタン サバルタンの有用性=柔軟さ この章ではスピヴァクの歴史家への見方と政治的代弁について

 

 ポストコロニアル知識人と政治的応答責任(p.81~83)

力を剥奪されたサバルタン集団の生活や歴史を適切で搾取に繋がらないやり方で伝えていくこと

ポストコロニアル社会での社会的・政治的抑圧体験→階級・地域・言語・民族性・宗教・世代・ジェンダー・市民権etc... 違いを超えて子範囲に存在 差異ゆえ知識人が全般的な主張を行うとサバルタン集団の持っている社会的差異を見逃す危険

サバルタン集団持つ歴史的知識・体験に対するスピヴァクの取り組みが完全に説明できるものではないということ 独自性を持っている

モハッシェタ・デビ『乳房を与えしもの』→インドにおけるナショナリズムによる解放の約束を批判 サバルタン研究集団への批判にも通底 サバルタン研究集団の古典的なマルクス主義的方法論が、インドにおける女性の抵抗の歴史を評価することを妨げてきたと強調

 

 サバルタン概念(p.83~84)

アントニオ・グラムシ→インドにおける貧困層・下級階層・小農の状況を理解するための理論源泉←ムッソリーニ政権下のイタリアの労働分業とインドにおける植民地的労働分業とのあいだに平行関係を見ていた 貧農層の社会的・政治的活動は一貫性がない≠19世紀のマルクス グラムシサバルタン解釈における一貫した政治的アイデンティティの欠如→スピヴァクによるポストコロニアル世界での決定的に重要になっていく

 

歴史叙述を脱構築する――スピヴァクによるサバルタン研究集団への批判(p.84~91)

グラムシによるイタリア史における貧農層の議論がスピヴァクの関心の鍵  シャヒド・アミンなどのインド貧農叛乱と抵抗活動の研究であり、『サバルタン・スタディーズ』 

ラジット・グーハ「インド・ナショナリズムの歴史叙述は長い間、植民地的エリート主義とブルジョア国民主義的エリート主義に支配されてきた。どちらも英国のインド支配のイデオロギー的産物だが、権力が移譲しても生き残り、英国とインドにおける新植民地主義的言説とナショナリズム的言説のなかに統合されてきたのである」

支配的な歴史記述や歴史書への批判という、こうしたサバルタン研究の歴史家たちの姿勢は、1980年代後半のスピヴァクによるサバルタンに関する初期の理論議論にとってきわめて重要 

エリートの歴史表象を批判することは明確な政治目的をはらんでいた。サバルタンの政治的な声や行動がとり返すことができないならば、それを書き直していくことならできる

スピヴァク→貧農の叛乱と社会行動がインド国家独立の歴史的語りの危機を提示・サバルタン研究の歴史家たちのアプローチを支えているマルクス主義の方法がサバルタン蜂起の複雑な歴史を記述するのに適切かどうか問う←単にマルクス主義の思想の拒否ではない

半封建主義から資本主義的隷属への移行ではなく支配勢力と搾取された集団との間の一連の政治的せめぎあいをたどるもの

 

 サバルタン研究と方法論の問題(p.91~97)

サバルタン研究集団の修正主義的な歴史記述の実践が、その方法論と齟齬をきたしているという点 サバルタン研究の歴史家たちはサバルタンを客体化し、「それぞれのサバルタン集団が持っていた独自の要因や自律性を回復しようとする傍らで、それを知識によって」統制してしまう危険を冒している

サバルタン研究の歴史家たちの実際の行為は脱構築に近いと示唆

サバルタン研究の歴史家たちに異議→サバルタンが自ら運命を統制できる主権を持った政治主体であるという発想←主権を持ったサバルタン主体そのものが支配的なエリート言説の結果にすぎない

国民を客観的構造として表象しようとするエリート集団に対し、インド社会という社会闘争の場が「連鎖した記号の鎖」・痕跡の網の目である←脱構築用語を使ってサバルタン集団や古典的マルクス主義の用語では説明できない貧農・女性・部族民といった人々の歴史と闘争を記述する方法を得る

サバルタンの文学的表象」でスピヴァクの思想にサバルタン叛乱と抵抗が表れている

モハッシェタ・デビ「ドラウパディー」→「変化しつつある歴史のひとこまにおける革命内部の女性による革命内部の女性による闘いのアレゴリー」←女性の沈黙と消去に対する一つの重要な異議申し立て

文学こそは植民地以降のインド社会におけるサバルタン女性の反抗や抵抗を表現するもうひとつの空間を提供→デビの歴史小説ポストコロニアル世界におけるサバルタン女性の自律と抵抗を具体的に表明

サバルタン叛乱の歴史に「記号システムにおける機能的変化」として接近すること

 

 サバルタンは語ることができるのか?(p.97~102)

階級と主体性に関する西洋的モデルのスピヴァクの批判→サバルタン集団を代弁しようとする善意の衝動が、サバルタンの声を利用する結果となり、沈黙を強いる

フーコードゥルーズへの批判:美学的な表象を支える=政治的表象を支える・彼らが自分たちの記述する無力な集団を表象代弁している知識人という自らの役割を隠蔽している点 主体とは言説と表象によって構築される!!←批判を明確化するためにマルクスの『ルイ・ボナパルトルのブリュメール十八日』(1852)を使用

マルクス:貧しい自作農の表象は二重の意味を持つ 美的肖像画としての表象・政治代理人による代表行為と弁別される→フーコードゥルーズの対談はこの二つの表象が混ざっている→このような混同が左翼の知識人が代弁したがる被抑圧者集団に被害を及ぼすex.工場労働者・刑務所・精神病院に収容されている人々

美的表象と政治的表象のギャップは「第三世界」に適用されるとますます大きくなるex.西洋フェミニズムが「第三世界」女性を語ろうとする傾向 西洋フェミニスト知識人と「第三世界」の女性とのあいだに平等な連帯はない

ヨーロッパ表象理論を「第三世界」の無力な女性たちの人生や歴史に適用することの限界

サバルタンは語ることができるのか?」は、現在の物質的・政治的文脈から過去の無力化され沈黙を強いられた声を掘り起こす→サバルタンの従来の定義を拡張・女性の闘いや経験を含み込んでいく

※重要※インドにおける反英国植民地闘争の歴史での女性の積極的関与が、国家独立の公式の歴史から排除されてきたという問題

サバルタン女性のジェンダーを強調することで、従来のサバルタン概念が拡大。深化する サバルタン女性の歴史的消去に対して、スピヴァクは彼女たちの物理的・文化的歴史を分節化するために、サバルタン女性が消えた痕跡をたどろうとする

 

 植民地資料における女性の歴史を回復する(p.102~106)

階級・経済的位置にだけ焦点を合わせると、インドの植民地主義から国家独立への移行期において、女性の役割と実際の営みを見過ごしてしまうと力説 ex.「シルムールのラーニー」(1985) ラーニーの特権的な社会的・経済的位置が未来の王の母親にしてラジャの未亡人というジェンダー的アインデンティティに従属させられた 重要な点①スピヴァクの植民地資料分析が「第三世界」女性の苦難に焦点を絞ることで、サイードやバーバの植民地言説分析とは異なる ②サバルタンという用語を女性も含むよう拡張することで、この語の狭い階級的定義がより複雑になったこと

インドの元首相インディラ・ガンディーもサバルタンであった→サバルタンが広い範囲の非特権集団指し示す?→サバルタンが厳格な階級制度に従属しているだけでなく、宗教・家族・植民地国家といった家父長的言説にも従属している主体であることを強調

 

 サティと表象の限界(p.106~110)

寡婦殉死(サティ)の議論 「サバルタンは語ることができるのか?」で発展を遂げる→寡婦殉死を語る文書のなかでヒンドゥー女性の政治的意思や声がどのように表象されているか検証

『ダルマストラ』、『リグ・ヴェーダ』=寡婦殉死は極めて例外的な神聖な行い・巡礼行為

サティには家父長制度的な支配構造が胚胎されている:女性の主体性の合法的置き換えと読解→女性の死ぬという「選択」が、彼女の自由意志の放棄として置き換えられる

サティという出来事がヒンドゥー文化における女性の自由意志と道徳的振る舞いに規範という象徴性を帯びていること→サティは良き妻としての女性の振る舞いを示す「例外的なシニフィアン

例外的シニフィアンが翻訳過程で分からなくなってしまう→サティを野蛮な表象とすることで、英国人は帝国主義を文明化の指名として正当化・英国人がインドの女性たちを伝統的なヒンドゥーの家父長制社会の非難すべき風習から救済しているのだと信じ込ませた

サティの議論:英国植民地政府による寡婦殉死の表象がヒンドゥー女性の声や主体的行動を見過ごしている

エドワード・トンプソン『スティー』(1927)→女性の主体性を擁護するのではなく、むしろ未亡人の肉体をイデオロギー的な闘争の道具として使い、自らの植民地権力を強化すること

スピヴァクのサティ議論は西洋の政治表象理論に対する重要な問いかけ→ヒンドゥー宗教的規範内部での女性主体の法的な置き換え・寡婦を家父長制の暴力の受動的な犠牲とする英国のやり方もサバルタン女性の社会的・政治的主体を無視している→だから「サバルタンは語ることができない」

 

 サティと植民地主義への抵抗(p.110~114)

ブバネシュワリ・バドリは抵抗運動への自らの関与を隠すために、ヒンドゥー古来の寡婦殉死に似せた自殺の儀式をとりおこなった→ブバネシュワリは寡婦殉死の規範に準拠していない ブバネシュワリの試みはインドの国民独立運動期における「戦う母親たちについての支配的な言論」に例えられる

ブバネシュワリによるサティ自殺のテクストの書き直しは「悲劇的な失敗」に終わった→男性中心国家独立闘争において「サバルタン女性は聞かれることも読まれることもない」から

サバルタンは語ることができない」という言明は政治的表象の構造だけでなく、現代の理論的モデルの限界に関して多くの議論を呼ぶ→ベニタ・パリー:無力な女性たちの歴史的・社会的抑圧をポスト構造主義の方法論で分析することは、彼女たちをさらに沈黙させる? バート・ムーア=ギルバート:サバルタン女性の抵抗が植民地支配における支配的な植民地主義の言説の中に記録されている明瞭な歴史的事実が存在する?←肝心なのはサバルタンの抵抗例がつねに支配的な政治表象システムのフィルター

 

 サバルタンは投票することができるか?(p.114~117)

サバルタンは投票することができるのか?」(1990) 1990年のニカラグア選挙に焦点を置いた→「日常会話における話し手と聞き手という直接関係」が「政治語り」にも適用可能だとする常識を疑ってかかる→「選挙の過程によって、人々が語ろうとする瞬間、人々のサバルタン性が現実に再生産される」

スピヴァクサバルタン女性の解放について完全な政治的解決や理論的定式を提供しているわけではなく、代わって語ることの限界と害を及ぼす可能性を暴こうとするだけ

 

私は「不謹慎厨」とは言いたくない。 「不謹慎」という言葉を発する人たちの背後にある生々しさ

平成28年熊本地震被災された皆さまに、厚くお見舞い申し上げます。

 

修辞的な言い方しかできないのが心苦しいのです(物書きなのに!!)。こんな風にしかお見舞いの言葉が言えなくて本当にごめんなさい。被災された皆さまが早く心の底から楽しいとか、気づくと笑っている、そんな日常が来るように、心からお祈り申し上げます。

 

朝、兄から聞いたのですがこんなニュースがありました。

またこんな記事も。

園児がモンシロチョウを追いかけるなんて、微笑ましくていいじゃないですか。生理用品は必需品です。

多分、そんなことを言わなくても分かっていると思います。私は「クレーム厨」とか「不謹慎厨」という言葉を使いたくありません。むしろ、「不謹慎」と言う彼/彼女たちは過剰な震災の情報にあてられ、処理能力が落ちている。または今まで「見よう」としなかった現実が目の前に突き付けられ戸惑っているのだと思います。

TVや特にインターネットで情報は簡単に得られます。倒壊した家に、余震に怯える被災者の方々、橋は落ち、道路は割れている。そんな風景を電波を通して見てしまったら、居ても立っても居られないのも事実で。でも因果律など、地震自体には罪も罰もないのだから、まずそれが生々しいことだと受け止め、言語化していくことが大切だと思うのです。

生理の記事のほうは生理用品が「不謹慎」だ、というひとは「できれば知らずに過ごしたかった」という消極的な立場を取っているのだと思います。小林よしのりさんが言う「気色悪い」という「なんとなくな感覚」こそ言語化を怠っている、消極的な立場をとっていると思うのです。生理があるから、ヒトは生まれてくることができるのですから、そのメカニズムを知るのもいいと思います。私は小林よしのりさんが「気色悪い」と言ったことが少し引っかかります。古事記では生理描写は決して近代的な穢れの概念として書かれていないのです。右派と言われる小林さんがそのことを知らないはずがないと思っていたのですが……。

分からなかったなら、知らなかったら、分かろうと知ろうとすればいいだけの話です。「なんとなくイヤ」っていうのは(生理とヒトの誕生のメカニズムからして)怠惰にすぎません。

生理(用品)の歴史を書いた本があります。よろしかったら参考までにどうぞ!

 

 あとお金は大事ですよね。募金もしちゃいましょう。

シェアするだけで寄付できる、お金のない私にとっては頼もしいページです。

 

私は安易に「不謹慎厨」とは言いたくありません。震災の生々しさが、知らなかったことが、突如、目の前につきつけられるのですから。そしてそこからなにが私に、あなたに、できるかこれからも考えていきたいと思います。

 

最後に、私の好きなsasakure.UKさんの楽曲を貼らせて頂きます。

歌詞の一部で「現実はフィクションよりもいささか陰惨ですから」とあるのですが、本当にそれね……。


sasakure.UK - A Soliloquy of The Boy who Cried Wolf feat. Cana(Sotte Bosse)

追記:在日外国人の皆さまへのデマは私がうまく言語化できないので、除外させて頂きました。力不足で申し訳ありません。

 

第4回3月25日フェミ勉レジュメ 『現代思想ガイドブック スピヴァク』レジュメ イントロから第一章まで

 第4回フェミ勉が3月25日に開催されます。課題図書はこちらになっております。

 

 

ガヤトリ・チャクラヴォルティ・スピヴァク (シリーズ現代思想ガイドブック)

ガヤトリ・チャクラヴォルティ・スピヴァク (シリーズ現代思想ガイドブック)

 

  このテキストを第1章まで読みます。参加予定でまだ読んでいない方も50ページほどなので読んでいおいてくださいませ。

 

Intro なぜスピヴァクか?(p.11~p.28)

スピヴァクの批判的仕事:マルクス主義・脱構築フェミニズムポストコロニアル理論・グローバリゼーション

西洋世界と非西洋世界

ヨーロッパ植民地主義は支配の間の社会的・経済的・政治的生活が現在にも影響

スピヴァクも反植民地主義ブルジョア的性格を帯びている

アメリカを代表する多国籍企業・金融資本と「第三世界」の女性たちの対立

 

ガヤトリ・チャクラヴォルティ・スピヴァク(p.13~15)

スピヴァク=「インドの国家独立運動という社会的理念と植民地主義教育システムの 遺産に囚われたポストコロニアル知識人」

英国植民地官僚にとって大事なこと:インドの中産階級を啓蒙化=植民地支配こそイ ンド人たちの利益に

スピヴァクの文学批評:植民地の文脈における英文学の帝国主義イデオロギー的機能を批判すること→『三人の女性によるテクストと帝国主義批判』

古典的なヨーロッパ・マルクス主義を反植民地主義闘争の文脈でどう適用するか

インドの社会主義が女性・部族共同体・農貧層の歴史の闘いを正当に評価しないのはなぜか

 

脱構築の政治学(p.15~18)

ポール・ド・マン脱構築的読解は非政治的で相対主義的ではない=修辞上の盲点や根拠になる誤謬に焦点を合わせること

哲学的・文学的テクストと現実世界の二項対立への疑問

現代のグローバリゼーションに関する支配的な発想を問い直す

スピヴァク脱構築の焦点を文学や哲学のテクスト分析だけでなく、現場の経済的・政治的テクストにも合わせる→読解行為の政治的意味合いを重視

 

 文体の問題(p.18~19)

スピヴァクの文体は難解である!=文体の難しさは「第三世界」の抑圧された人々の声と政治的主体うぃ雄弁に語ることとの矛盾

←物事が知られる透明な表象システムこそ人々を統制・支配する仕組みに他ならない

「私たちはわかりやすい文はだますことがわかっています」

 西洋の批判的思考の伝統的仕組みに従おうとしない・異なる歴史や場所や方法論を 注意深く結びつける意識的な修辞的戦略

  

 サバルタン・スタディーズ(p.20~21)

スピヴァクの重大な問い:ナショナリズムがインドの人々の大多数を代表するものとなりえてこなかった

ガンディー:農貧や女性たちを含むサバルタン集団を基盤としサティヤグラと呼ばれた非暴力闘争を展開

サバルタン研究集団:階級的・ジェンダー的盲点を修正し、歴史を下から書き直すこと→西洋マルクス主義による社会変革モデルでは複雑な歴史はすくい取れない

西洋の理論的モデルがインドの恵まれない人々の歴史や生活を十分に表象していない→「第三世界」の女性たちが複雑・非組織的でないことから西洋の批評理論の語彙で表象できない→西洋批評理論の限界

↑をうけて:被抑圧者の集団に代わり政治的主張を行う倫理的リスク・「第三世界」の生活が西洋批評理論だけで通用し、沈黙を余儀なくされること

サバルタン女性の一貫した歴史や生活を論じること→西洋的知識の規範・伝統・帝国主義的権力の維持の攪乱

 

スピヴァクフェミニズム(p.22~24)

モハッシェタ・デビ「乳房を与えられしもの」:下層階層・サバルタン女性を解放できなかったインドのナショナリズムの失敗・女性の再生産労働の無償性という西洋の概念

「第一世界」と「第三世界」のあいだにあるグローバルな姉妹愛という「嘘」→西洋フェミニズム帝国主義の共犯性

フェミニズムに批評姿勢と政治目標:差異の問題による繊細になるような方向に拡張

力を奪われたサバルタン集団の人生や経験に変化をもたらすことができるか?

アメリカの外交政策とグローバルな経済拡大に間接的に寄与してきたのではないか?

→「第一世界」の大学における「第三世界」の代弁者という誘惑に抗ってきた・矛盾と二律背反を免れないことも認識

 

 スピヴァクの鍵概念(p.24~28)

植民地主義と新植民地主義を間接的に支えてきた西洋的知識の特権的システムを学びつつ解体することが必要

  第一章:文章スタイルとマイノリティ表象の伝統に抗う

  第二章:脱構築理論と力点の変化

  第三章:「サバルタンは語ることができるのか?」の主張と問題提起

  第四章:スピヴァクフェミニズムへの貢献 女性器切除

  第五章:マルクスの価値論

  第六章:ポストコロニアル理論への貢献

  最終章:植民地主義の文化的・政治的遺産を批判的に検証する知的努力の地平

 

 

鍵となる思想

第一章 理論、政治、および文体の問題(p.31~45)

 

西洋批評理論を現代世界の政治的・経済的・社会的不平等と抑圧に見合うものにするという努力

 

 テクストの世俗性(p.33~34)

サイード:文体こそが書き手の社会的・歴史的世界への取り組みを直接的に反映する

イーグルトン:スピヴァクは理論的な曖昧さをてらい・はっきりとしない隠喩とおおげさな特殊用語を使っている

テクストと世界が単純な二項対立をしているという点を問題視 テクスト性の概念についての根本的な誤解」をはらんでいる

 

  テクスト性と世界化(p.34~39)

テクストと世界との二項対立の脱構築デリダ構造主義への批判

シニフィアンシニフィエへの批判

デリダ:言語は差異システムだが、意味作用が常に遅延・構造に還元できない

言語が社会的・歴史的世界を透明に反映するものではない 「テクストの外部には何もない」 テクスト性は限度を持たない痕跡(第二章参考)

透明な言語モデルが問題の理由:西洋的知識の安定とした対象としての世界

ヨーロッパの帝国主義的拡張の支配的な世界表象=「世界化」

世界化の議論:ポスト構造主義の概念を現代のポストコロニアル思想に適用するさいに周到な使い方をしている

 

  批評的相互介入(p.39~44)

「むずかしい」書き方はスピヴァクの理論方法と切り離せない

マッケイブスピヴァク=「フェミニストマルクス主義者の脱構築主義者」

←調和を否定 全体的理論モデルじゃ「植民地主義的影響に毒され」ている

フェミニズムマルクス主義、脱構築の言説内部の不連続性を維持するという譲れない、しかし不可能な責務」=「批評的相互介入」

批評的相互介入と交渉:「第三世界」の政治思想 ガンディー フランツ・ファノン

批評的相互介入の戦略の例示

マルクス主義・フェミニズム脱構築の差異と不連続性に妥協しない態度

マルクス主義・フェミニズム脱構築の差異の再考は「第三世界」に住む抑圧されたサバルタン集団の倫理的・政治的必要に促されて

理論的厳格さと政治的関与で引き裂かれている←マルクスフォイエルバッハ第十一論題」

ゆっくり注意深く読むことの必要性

理論的介入が西洋的思想の伝統に切れ目をいれサバルタン集団が今でも搾取されている事実に立ち向かわせる