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Don't cry baby,please !!

少女フェミニストの備忘録

2.5次元に恋して 本気の好きってなんだろう

おはこんにちは、maiです。

現在2.5次元に恋しています。初めてアイドル(?)にぞっこんラヴ。作法とか知らないので、いろいろやらかしています。ファン友達が優しいんだ、これが。

でも、「本気」や「純粋に」好きってどういうことだろ、と首をかしげています。

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「本気で好き」って本当にどういうことなんだろう。まえ知人と感情に純度を求めすぎっていう話もしたし、上に引用した『失恋ショコラティエ』7巻のサエコさんの顔が浮かびました。

ファンだからCDも買うし、DVDも買う。でもこれって彼らの春を買っていることと何が違うんだろう、と思ってしまいます。すごい罪悪感なんです。

確かに踊る推しメンを見て元気になります。笑顔が見れれば画面越しでも嬉しいし、頑張っている姿を見れば応援したくなる。

でも、これって彼らを消費しているじゃない?って思ってまた振り出しに戻る。

消費に耐えて、CDもDVDも全部そろえてできるだけイベントにも顔を出して、それで「本当の好き」になるなら私はその純度を求めたいと思います。でも、なんか違うと思う。それでもこの罪悪感は拭えないと思います。

2.5次元だし、私はあのキャラクターを演じている推しメンが作家主義的に好き、っていうのは単なるエクスキューズでしかないと思うのです。

もう大混乱です。

「~~は私を救ってくれなかった」っていう物言いがありますが、救われるどころか、もう底なし沼にずぶずぶとハマり込んでしまったみたい。抗ってみたのですが、抗ってもこの推しメンが好きって気持ちは変わらないし、苦痛なときもある。まるで嵐のなかにいるようなものです。

もうなるようにしかならないと思っています。いつか熱も冷めるだろし、と諦めが勝っている。熱が冷めたあとのことは怖くて今は考えられません。

私は自分を痛めつけるのが好きなので、この状況すら楽しんでいるっていう業の深さ。度し難いです。

アイドルを好きさんがいらっしいましたら、ご助言頂けると嬉しいです。皆さんはどうやって罪悪感と折り合いをつけていますか?

6月24日第7回フェミ勉 レジュメ『現代思想ガイドブック スピヴァク』 第4章から第5章まで

 6月24日には第7回フェミ勉が開催されます。皆さん、ぜひご参加にご協力を宜しくお願い致します。

 参考書・レジュメは以下になります。

 

ガヤトリ・チャクラヴォルティ・スピヴァク (シリーズ現代思想ガイドブック)

ガヤトリ・チャクラヴォルティ・スピヴァク (シリーズ現代思想ガイドブック)

 

  

 第4章 「第三世界」女性と西洋フェミニズム思想(p.119~151)

スピヴァクフェミニズム思想へもっとも重要な貢献のひとつ→「第三世界」女性の現実の歴史と生活に考慮すべきである

スピヴァクの挑戦→フェミニズムとはあらゆる女性のために語るものだという普遍的な言明 スピヴァクの西洋フェミニズム思想への執拗な批判はフェミニズム思想の議論と緊急の政治的課題の強化を目的

フェミニズム西洋思想の限界と盲点を検討する 次にスピヴァクがいかに初期英米圏のフェミニズム文学批判の政治的主張に「第三世界」女性の批判的視点から異議を申し立てていったか。そして「第三世界」を基盤にして、女性が多国籍企業による猛烈な搾取→フェミニズムの政治力学の批評的枠組みと将来の目標を再定義

 

フェミニズムと差異の問題(p.121~127)

ボーヴォワールジェンダーとは社会的構築物であるがゆえに社会的・政治的闘争抗うことも可能

「反本質主義的」なフェミニズム思想家・バトラー→名づけの政治性

ジェンダーアイデンティティの言説は家族・国家・教育・法・メディアといった強力な家父長制的体制によって強化され制御されている。

スピヴァク→マイノリティ集団に対する否定的ば表象自体を模倣する戦略的本質主義

男女の性的差異への関心から「第三世界」の女性と「第一世界」の女性とのあいだの文化的差異へ移動

 

学びの解体〔unlearning〕と西洋フェミニズムへの批判(p.127~130)

どんな読解行為も社会的・政治的に深い意義をはらんでいる→「第三世界労働の搾取こそが合衆国の大学を養う源泉であり続けている」

読むという営みへの唯物論的解釈→新植民地主義におけるジェンダーの搾取に関してフェミニスト的読解の限界

西洋の学問的モデルが「第三世界」女性を平然と無視できる特権に異議申し立てる→「私たち自身の損失として私たちの特権を学びつつ解体する」→文学や歴史・メディアなどにおいて世界の支配者表象がいかに力のない集団の生活や体験を忘却するように促しているかを認識

学びつつ解体というスピヴァクの概念がフェミニズムに理論・批判に及ぼした影響

→チャンドラ・タルペード・モハンティ「西洋のまなざしの下で――フェミニズムの学問と植民地主義言説」(1988)

①西洋のフェミニズム的学問における「第三世界女性の生活の物質的・歴史的雑多性を植民地化する」傾向を批判

②「特権と自民族中心主義的な普遍性を自明視する態度」こそ「第三世界」に住む様々に異なる女性たちに破壊的な影響力をもたらす→モフセン・マフマルバフ監督『カンダハール』(2001)ブルカをかぶることが女性の屈従のまぎれもないしるしであることを強調→しかし特定の状況下では女性がわざわざ自分から選択してヴェールをかぶることもあるex.フランツ・ファノン『革命の社会学』、ジッロ・ポンテコルヴォ『アルジェの戦い』

国際的枠組みにおけるフェミニズム――スピヴァクによるクリステヴァ批判(p.130~138)

文化的違いを無視してすべての女性に代わって語るという西洋フェミニズムの普遍的主張を問い直す

ジュリア・クリステヴァの自己耽溺的な傾向=西洋的な女性の主体構築の文脈で中国女性の歴史や生活を表象しようとする姿勢を分析→スピヴァクの個人的逸話

インドが植民地状況を脱しても自分たちは解放されなかったという洗濯婦たちの思いこそが、西洋フェミニズムの「第三世界」女性に対する限界を照らし出す→「知識産業に従事するフェミニストとして私たちは彼女たちから学ばなければならない」

スピヴァクの警告:西洋フェミニズムが見落としがちな「第三世界」女性の歴史・闘争・その特殊な物理的条件を強調する→ジュリア・クリステヴァ『中国の女たち』(1977)が端的に問題が表れている

「沈黙の視線」そのものが西洋の知や主体の権威に挑戦するための手段としての他者の文化を喚起する西洋ポスト構造主義的知識人にありがちな傾向を象徴

→村人たちがいかにクリステヴァを部外者としてとらえているかをまず想起

クリステヴァが古代中国における母系的系譜にひかれるのはフェミニストユートピアを提供するように思われた→しかし現代における他の重要な社会的文化的要素から切断して女性というカテゴリーを考えることに繋がる

スピヴァククリステヴァの中国女性論は、彼女が中国における歴史的位置について包括的な一般化をおこなっていることからも自己中心性を露わにする

クリステヴァの『中国の女たち』での政治的関心は中国の貧農女性の現実の物理的現実になく、ヨーロッパ文化における女性の身体的存在の理論的抑圧にある

クリステヴァの関心はそもそも中国文化や社会における女性の歴史的位置にない

クリステヴァによる女性の性的欲望の革命的性格づけはあまりに直裁で、女性同士の間に存在する重要な文化的・歴史的違いを無視している→より洗練された見取り図「女性のセクシュアリティの地理学」を立てる

 

女性のセクシュアリティの地理学(p.138~141)

フェミニズム思想において女性の生殖を目的としない性的快楽を称揚することが、「第三世界」女性の政治的目標としてどれだけ有効であるか→女性割礼を例に

クリトリス切除をするすべての女性の性的快楽の象徴的な抑圧として再定義するスピヴァクによって、それは女性の社会的・経済的苦難という全般的状況を示すものとされている

「第一世界」においては「女性性を定義する子宮に基づく規範」が、「家屋の所有と核家族の神聖さに至上の価値を置く発達した資本主義の全体」を支えているのだが、「発達が遅れた国では性的主体に象徴であるクリトリスを抑圧することが、そうした状況にある女性に対する特有の弾圧として機能しており、そこでは女性は多国籍企業が遠隔理操作で利益を抽出するシステムないで最下層にある低賃金労働として位置付けられている」

「乳房の与えしもの」において「女性の身体の過剰さを示しているのが、クリトリスの刺激による性的絶頂ではなく、がんである」

 

「三人の女性によるテクスト」と女性的個人主義に対する批判(p.141~150)

女性のセクシュアリティの地理学を作るというスピヴァクの探求をさらに発展したのが、「三人の女性によるテクストと帝国主義」(1985)だ

「三人の女性によるテクストと帝国主義」が言及するのはシャーロット・ブロンテ『ジェーン・エア』とジーン・リス『サルガッソーの広い海』メアリー・シェリー『フランケンシュタイン

ジェーン・エア自身によるブルジョア女性個人主義の語りのなかに隠された帝国主義的サブテクストをたどる

バーサ・メーソンの歴史的意味 歴史的・文化的に存在を否定されジェーンの西洋女性的自己の安定性を保証するオリエンタルな他者として機能

スピヴァクによる『ジェーン・エア』読解:帝国主義の時代のフェミニスト個人主義として位置づける。バーサとジェーンの間に存在する根本的なジェンダー的差異を説明することができる。女性の個人主義というジェーンの物語が、結婚と子育てという家庭用語でできているとすれば、バーサは「帝国主義の定理」によって定義される

バーサ・メーソンの視点からの『ジェーン・エア』を書き換えであるジーン・リスの『サルガッソーの広い海』

バーサの生産能力のある身体をロチェスターの私的所有物として法的に定義すること→「サバルタンは語ることができるか?」におけるサティの議論を先取りするもの

ジェーン・エア』におけるサティの重要性は多くの家父長制的社会において、女性の生殖能力のある身体を私的所有として法的に定義することが女性主体構築の一般的条件であることを考えれば明らかである。

19世紀のブルジョア女性個人主義と20世紀の西洋フェミニズムとの歴史を結ぶことで、スピヴァクは西洋のフェミニズムの歴史が帝国主義的拡張のプロジェクトと共犯関係にあることを暴く

 

 

第5章 唯物論と価値(p.153~183)

労働者と資本家との間の労働分業という伝統的なマルクス主義の語彙を再活用し、女性の経済的収奪を「第一世界」と「第三世界」との国際的労働分業と関係づける→フェミニズム思想だけではなく唯物思想も必要で、スピヴァクによるマルクスの再読

 

マルクス再考(p.154~158)

共産圏が崩壊して以来、現代の西洋思想にとってマルクスは時代遅れ

ポストコロニアル世界においてマルクスによる19世紀ヨーロッパの資本主義批判がいまだに現代の経済世界に有用という皮肉

マルクスの欠点→資本主義の分析をヨーロッパに限ったこと

第三世界」の借金と現代の国際的労働分業が「デリダ以降のマルクス再読」を理解する文脈となる

マルクス思想にあるヨーロッパ中心主義は批判されるべきだが、価値や政治経済について後期の議論を検討→マルクス思想がポストコロニアル状況における現代の文化・政治・経済を考えるのに重要

 

デリダに従いながらマルクスを読む(p.158~162)

マルクス再読にあたってジャック・デリダ脱構築哲学を通して著作に接近

デリダを通過してマルクスに行くことは、『哲学的』テクストの『文学的』ないしは『修辞的』読解であると言われてしまうかもしれない」←マルクス自身が読解という営みと政治的変革との分割を疑っていたことを見過ごしている→理論と政治の分裂

スピヴァクマルクスの後期の経済哲学に脱構築批評を適用するのも、安直で教条的なマルクス解釈予防→解釈行為から政治的変革への要求が性急すぎる

マルクスの初期思想に哲学的倫理的側面から挑戦する試み

哲学的試み→経済的平等と政治的解放をめざす労働者階級の闘争

倫理的試み→ヨーロッパの産業労働者階級の名の下の普遍的主張が力を奪われた集団を排除していた

スピヴァクの焦点→『資本論』や『経済学批判要綱』などの後期経済学的著作

後期マルクスを重視する①脱構築的運動を見出している②現代の「第三世界」における女性の生産能力のある身体に対する搾取への具体的取り組み

→男性中心的・ヨーロッパ中心的なマルクス思想を是正する試み

 

19世紀ヨーロッパの資本主義から現代の国際労働分業へ(p.162~164)

19世紀ヨーロッパの労働者階級の男性の状況だった

現代はグローバル資本主義が発展途上のポストコロニアル国家で労働者階級を雇用

19世紀のヨーロッパ男性労働者と現代の女性労働者の非対称性

 

労働者階級の身体を再考する(p.164~166)

モハッシェタ・デビ小説「慈悲深きドゥーロティ」 国家独立にともなう解放の約束にも関わらず、債務労働や売買春のようなジェンダーと階級に基づく旧来の搾取形態がポストコロニアルであるインドで行われていることを強調

サバルタン女性の身体に刻まれた知がいかにマルクスの経済的・政治哲学的再考に結びついているか

 

スピヴァクマルクスと価値をめぐる労働理論(p.166~173)

「価値の問題に関するとりとめのない省察」→観念論によって意識として、唯物論によっては労働力として、主体が構築される

『ポスト植民地主義の思想』のインタビュー 「いわゆる『第三世界』こそが『第一世界』の富と文化的自己表象も可能性を産出していると示唆することが可能だ」→マルクスによる19世紀の価値理論を現代の「第一世界」と「第三世界」との国際的労働分業に関係づけることによって、マルクスの労働価値理論がいまだに重要であると力説

注意:マルクスは「使用価値」という概念を理論化しなかった

ある商品の価値はその物体の内在的特質や使用価値で決まるのではなく、交換価値から使用価値を抽象的に抜き出すことによって決められるex.ナイキの運動靴の価格

→抽象化された人間の労働をおこなう亡霊のような身体が忘れ去られ、交換価値の金銭と資本の流通への交換が不可避で普遍的な過程として表象されてしまう

マルクスの労働価値理論を支える論理に異議を唱え、それが資本主義と社会主義との安定した対立関係に基づいていると批判

人間の労働という亡霊のごとき存在が「不確定性の可能性」として機能する仕方

マルクスの思考法を批判 背景:デリダによる西洋哲学の二項対立の脱構築という支え

両面価値的で幽霊のような使用価値のありようを強調すること→「価値を交換価値とし、交換価値以外の何ものでもないものとして」書き換えるマルクスの批判者たちの立場に異議を唱える

火急の政治問題にどのようにスピヴァクの政治理論が適用できるか?

 

経済決定論に対する批判(p.174~178)

マルクスの欠点:ヨーロッパ社会における男性労働者と資本家とのあいだの労働者分業を特権視し、それを社会関係の構造原理としたこと→ルイ・アルチュセールは経済決定論→ジェンダー・人種・セクシュアリティに基づく社会的抑圧が見過ごされる

ワルターベンヤミン「文化の記録でありながら、同時に野蛮の記録でないようなものは何ひとつない」

→西洋のカルチュラル・スタディーズによる経済を度外視した文化やアイデンティティへの注目傾向が、中東での西側諸国の外交政策インドネシアなどとの「自由」貿易協定という現代の野蛮を見過ごしている

=「グローバルに機能する経済を無視した『文化主義』では、それに伴っている野蛮の生産に取り組むことができない」

マルクス主義の経済的視点こそ現代のグローバリゼーションや国際的労働分業を批判的に理解するのにきわめて重要

マルクスの読み直し:マルクスの労働価値理論が現代のグローバルな経済システムに関して持つ批評的・政治的重要性を指し示す

→「労働価値論をポスト産業社会では役立たないと批判したり、経済的指標として意味がないと考える人たちは、第三世界という闇の存在を無視しているのだ」

特に力説「第三世界」における労働者階級の女性たちこそが「国際的労働分業最大の犠牲者」ex.多国籍企業の利潤とスリランカの女性の稼ぎ

 

資本論』を脱構築する(p.178~182)

現代のグローバルな資本主義の理論が消去しようとしているのは、サバルタン女性の労働力という使用価値

サバルタン女性の生産的な身体の使用価値こそがまさに、第一世界における蓄積と安くて使い放題の資産を産んでいることに注目

資本主義は人間の身体に備わった余剰エネルギーを使うことで、資本家は実際に支払うより多くの労働を得ることができる

マルクス主義それ自体が哲学的システムによっては資本主義の社会的不正義を説明できない

「才能」という名の亡霊――小説を書く覚悟

 いま私は新人賞に応募する用の小説を書いています。大事なのはそこで「選ばれる」ことではなく(もちろん1000倍以上のの倍率を潜り抜け選ばれたらすっごくすっごく嬉しいですが)、とにかく書き上げることを目標にしていることです。それが私に課した義務だと思っています。さきのことはどうなるか、わからないですからね。書き上げることなく不慮の死を遂げる可能性だってありますし。書き上げるまでは死なない、が私の目標です。

 

 友人のMさんから、小説を書く才能とは? というご質問を頂いたのですが、私は才能なんてないので、この質問はナンセンスだとまず言っておかなければいけません。私はまだ(プロの)小説家にはなれていませんから(自己暗示はかけていますけど)。私の知る範囲では、小説は書けます。忍耐と体力と孤独に耐える力と自分自身を信じることができれば。それに私は才能という言葉が嫌いです。

 まず才能があることと、才能を磨くことと、才能を他者から認めらることは全く違うことです。しかもこの才能というやつで、そのひとの人格を嘲り、崇拝したり、貶したり、褒めたたえたり。まったく無意味なことです。私はこの質問から羽海野チカさんの『ハチミツとクローバー』を思い出しました。

 

 『ハチミツとクローバー』の登場人物たちは、みな才能という亡霊に取りつかれています。それでも懸命に生きようという必死さに胸を打たれます。

 「何か残さなきゃ生きる意味がないなんて、そんなバカな話があるもんか」

 あるキャラクターに羽海野さんは言わせます。過剰に生産性(私たちが生活している上での労働からリプロダクティブまで)を意識させられる昨今、この言葉は非常に多くの方々に届いたでしょう。

 何かを残す必要なんてないんです。ただ自分が忘れられる覚悟をしていれば、怖いことなど、何もないと私は思うのです。

 私は、何度も言いますが、自分に才能があるとは思っていません。ましてや他人から認められるものは、持っているようには思えないのです(そもそも私の「所有」しているものの少なさよ!)。

 私はいい歳のおばさんなので、諦めることがうまくなりました。諦めは人生における洗練だと思うのです(ドント・トラスト・オーバー・サーティー!!)。どんどん諦めて、それでも執着することとは何か? 私には書くことがそれでした。届かない想いを抱き続けることは私にとっては日常でした。それが書くことに代わってもなんら苦痛ではないです。書くことは私にとって叶わないと分かっているような恋をすることです。

 とにかく制約なしで(私は「やさしい百合物語」を書こうと努力してきました)、自分のやりたいようにやろう、と決めてから(決めるまでずいぶんかかりましたが)、私は楽になりました。

 たとえ、私のことを忘れ去られてもいい。

 たとえ、私が書くものが打ち捨てられてもいい。

 それでも私がいま祈りのように書いている小説は決して無駄ではないと盲信しています。

 信じる力は想像力に直結すると思います。私はただ自分の今まで触れてきた物語たちへのささやかな恩返しができればいいのです。

 まあ偉そうなことは書きあがってから言うべきですよね。これがまたロンギング&ワインディング・ロードだから困ったものです(本当に……)。とりあえず書くことだけは覚悟が決まったといいましょうか。それは私の義務のひとつかもしれません。

 とりあえず今日もちまちまと書いていきたいと思います。そんなmaiでした。

第6回 フェミ勉まとめ

 5月27日に行われた、第6回フェミ勉のまとめとなります。課題図書はヤマシタトモコさんの『HER』とよしながふみさんの『愛すべき娘たち』でした。

 今回はJさんがまとめてくださいました(Jさんありがとうございました)。主催含め7名が熱く、時には脱線し、さまざまな話をさせて頂きました。参加された皆さま、本当にありがとうございました。また次回のフェミ勉も開催したいと思いますので、どうぞよろしくお願い致します。

 

第6回 フェミ勉 課題図書「HER」と「愛すべき娘たち」

主催者によれば、今回漫画を選んだ理由は、スピヴァク読解から見えてきたシスターフッドへの懐疑を問い直すためということ。
 
HERに対しては、リアルな時代的感性(ファッションセンス、嫌な男等)を読み取った人が多く、年齢に応じた同調圧力や自意識を息苦しく感じ理解の限界を人もいた。後述の愛すべき娘たちと比べて、作者の出自が庶民派であるためか、エネルギーに満ちた女性に焦点が当たることも多い。すべての厄災は母親に由来するという言葉がキーとなっているということで一致。議論は実際の母と娘の関係に移ったので、男性陣しばらく沈黙して拝聴。
1.母親と娘の議論
父親の不在と母親との葛藤のない関係が描かれている。実際にはドライでありながら、子供を自らの投影とみなしていたりするアンビバレントな側面がある一方、一時期は完ぺきにも思える存在でもある。
父子関係と母子関係の違いは、父親は成長することで殺すこと(相対化)ができる存在であるが母親は殺すことができない。しかし一度は殺しつくすことを志すべきである。
他人も母親との葛藤を抱えていたと知ること自体に、安心感を覚える。
密着型の母親像と放任型の母親像の乖離は、父親と子供の関係に影響される。
愛すべき娘たちの母子家庭や虐待のケースにおいては、父親の存在は影ながら大きな役割を担っている。
母と娘の距離が適切でない場合、父親と母親の関係に問題がある場合がある。
母親は娘に認められたいと思うのでは?
父親不在の物語は、大人になりたくない読者の気持ちを反映する。
大人になるということは、大人になるということに拘らなくなることなのかもしれない。
大人になれば服装も自由になれるが、長子であることの責務等ものしかかってくる。
2.閉鎖的な地域社会や家父長制の「呪い」についての議論
祖父母世代と比べて、社会情勢の変化等あるが、基本的には目に見えない形で(例えば経済的な問題、「分骨」は是か非か、介護の担い手問題)に存在している。血縁関係の難しさ
シスターフッドは血縁に依らない。
キブツミクロネシアの例も一種のシスターフッドではないだろうか。
しかしここで問題なのは、家父長制ももともとは相互扶助の枠組みだっただろうということで、今それが抑圧的になっているのは単に時代に合わなくなってきているという相対主義だろう。
抑圧的な側面は、例えば血縁関係は替えが効かない分、失敗すると取返しがつかない。
例えば良い嫁であろうとすることといい母であろうとすることは矛盾する。
結婚する目的は子作りであるなら、出産に数十万もかかるのはおかしいので、出産に合理的根拠はなく、少子化の現状もまた必然なのかもしれない。
3.階級としてのHER
這い上がるエネルギーはカーストによって違う。
バイトでグランドピアノを買った人と比べて、親のお金で大学に行った自分は、人間的に弱いのではないだろうか?という疑問。
一方でHERケース5の貧しい家庭に育った主人公は、生活も心もゆとりがある女性に対して劣等感を抱いている。
 
感想
以上がフェミ勉で話された内容で、メモできた部分の要約です。
1~3の部分はそれぞれ別の問題提起をしているとともに、同じ問題について語っていますが、特に興味深く思うのは、2の「キブツミクロネシアの事例も、いずれは現在の家父長制のように抑圧的になるのでは?」という疑問を全員が共有していた点でした。
この漠然とした問いは、シスターフッドそのものへの懐疑というより、よくある類の現代社会への懐疑なのでしょう。
いかにしてこの懐疑を超えたところに、シスターフッドを見出していくかが今後、問われていくのだろうと思います。

第6回5月27日フェミ勉レジュメ『HER』『愛すべき娘たち』 シスターフッドと「世界の決まり」

今回のフェミ勉はインターバルと称し、ヤマシタトモコさんの『HER』とよしながふみさんの『愛すべき娘たち』を取り上げます。

 

HER(Feelコミックス)

HER(Feelコミックス)

 

 

 

愛すべき娘たち (Jets comics)

愛すべき娘たち (Jets comics)

 

 

スピヴァクの復習からしたいと思います。

スピヴァクは西洋フェミニズム第三世界フェミニズムの関係にシスターフッドはなく、シスターフッドという概念は欺瞞に満ちていると書いてありました。

果たして本当にシスターフッドという概念は欺瞞に満ちているのか、欺瞞だけが存在するのか、私には大いに疑問です。シスターフッドという概念を探りたく、この二冊のマンガを取り上げさせて頂きます。

 

『HER』の第三話にこんなくだりがあります。

…花を好きなのを黙っていたことも名字が嫌いなことも2年もすれば忘れて

その三年後には今気にしているようなことはどうでもよくなる

…その5年後16歳の自分が大切なものをドブに捨ててきたことに気づく

――……何それ 予言?

人類にあまねく降りかかる呪い 世界のきまり

ナイスなおばあさんが女子高生に説くシーンです。私は雑誌掲載のときこれを読んで、このシーンの印象をよく覚えています。

登場人物の女子高生・西鶴は実生活に少しの違和感を持って過ごしています。その悩みをくだらないと切って捨てるには、あまりにも物分かりの良い大人です。ナイスなおばさんがそう言うのは、自分の経験に裏打ちされたものだと、分かるはずです。

私はここでシスターフッドというのを感じました。またナイスなおばさんはこうも言います。

 永遠に孤独だけど 孤独なのは 自分だけじゃないし

繋がらずに生きては ゆけないから 終われない

それも世界のきまりよ 安心でしょう

 

対等なもの同士が絆を築くわけではありません。むしろ対等なもの同士という言い方に違和感を私は覚えます。本当に対等なもの同士というものが本当に存在しているか、謎です。立場が違うもの同士が絆を築けるからこそ、シスターフッドと言うのではないでしょうか。

 

また5話ではこんなモノローグがあります。

 あなたが欲しいと言った かわいい顔なんていらない

あたしはあなたのような 女の子に生まれたかったのです

 

この5話での主人公・花河はいわゆるもてるために努力している努力している可愛い女の子です。仕事をばりばりこなす本美に愛憎を抱いています。これもまたひとつのシスターフッドとらえることができるのではないでしょうか。愛の反対語は無関心です。花河はそのことをよく知っています。だからこそ、憎悪を抱いてしまうほど、本美に惹かれていることを認めることによってこの話は終わります。

 

『愛すべき娘たち』にも触れてみましょう。

麻里と雪子は母と子で長い間、暮らしていたが、麻里は雪子より年下の俳優のたまごである大橋と結婚することになります。雪子は麻里に騙されていると忠告しますが、麻里は頑として聞きません。一緒に暮らしていって雪子は大橋がいい青年だと知りますが、腑に落ちません。そして家をでていくことを決めます。

 たとえどんな男だって麻里さんを雪子さんから取っちゃう男は 雪子さんは駄目なんだ

そうよ! ずっとあたしだけのお母さんだったのよ

 

雪子は泣きながらそう告白します。そして麻里が雪子にもたれかかる場面でこの話は終わります。

母と娘というのは関係を説明するのは難しいものですが、ここには淡いシスターフッドを感じることができます。母と娘というのは原始的なシスターフッドの関係性を見出すことができると思います。

 

また4話でもシスターフッドを見ることができます。主人公の「私」と牧村と雪子は中学時代、友だち同士でありました。牧村は生涯、民間企業で勤めあげるということを目標にしていましたが、牧村は家庭に入ることになりました。その背景には家庭内暴力がありました。そのことに「私」は後年、気づくのです。「私」は雪子の葉書で涙を流します。

 あの時話した ささやかな夢をかなえた事のできた

友達がちゃんといてくれたんだ

 

必ずしも同じ傷を持つ者同士が連帯するわけではありません。差異があるからこそ、シスターフッドを築けるのです。互いにその立場で振る舞うことが傷つくことになるかもしれませんが、それでも繋がらずにはいられないのが人間です。その立場から頑張っているから、私も頑張れるのだ、ということを日々感じています。

 

今回レジュメで取り上げられなかった回もありました。いろいろと皆さんのご意見を交換したいと思います。

第4回3月25日 フェミ勉まとめ

 3月25日の第4回フェミ勉のまとめをMさんがして下さいました(書記に徹し、フェミ勉の縁の下の力持ち的なMさん、いつもありがとうございます)。

 フェミ勉の模様をMさんのお言葉でお伝えさせて頂きます。

 


まだ春の蕾が幼き頃に第四回フェミ勉は開催されました。

 

まとめ 

 

一般に思想の難解度は、その内容に起因する。そのため難解な思想内容は、そうであるほど、明晰で平明な表現によって伝えられねばならない。その典型が数式を用いた表現である。そこでは多少の訓練を積むならば誰もが一致した内容に到達できるはずである。
ところが、このような常識が通じないのがスピヴァクという思想家である。

 

スピヴァクの思想にあっては内容はともかく表現そのものが難解なのだ。もちろんスピヴァクの表現が難解であるのは、スピヴァクによる意図的なものである。
それでは、なぜ、スピヴァクは、かくも難解な表現を、あえて用いるのか。
フェミ勉第四回は、スピヴァクにおける内容と表現との、このような奇妙な捻じれともいうべき問題について議論(されるはずであった?)。

 

上記の問題を考えるために読書会ではポストコロニアルの状況が提起された。
先進国と呼ばれる社会に我々は生きている。だが先進国で生きているという前提を、あまりに我々は自明視している。そのため、いわゆる「第三世界」の存在とりわけ、その世界における貧しい女性や子供の存在を思考できない。それゆえ先進国における我々の思考の前提を疑うこと、そこから始めねばならない。
ならば我々の思考や言葉を捨て「第三世界」の人々の立場に立てば良いのだろうか。そうではない、というのがスピヴァクの思想である。
(スピヴァクは、そのためにデリダによる脱構築という方法を採用する。デリダの方法とはシンプルに述べるならテクスト主義、つまりテクストの外側に「現実」がある、という見方を疑問視するものだからである。ここでの「現実」とは、我々の思考や言葉が自明視する「第三世界」の女性という存在である)。

 

さらには「第三世界」と我々という、この彼我の差異そのものを疑う必要がある。既にグローバル化のなかで人々は国家の枠を超え流動化している。グローバル化は従来の先進国の内部に「第三世界」とも呼べるような貧困化の状況を作り出しつつある。

 

それならばスピヴァクの叙述の複雑性は、どこに由来するのか。
まずは、我々の思考そのものがもつ自明性を疑い、その思考に隠れた権力性を暴くことの必要性、しかしながら我々の思考から離れた外部として安易に女性や子供を見出すことへの疑問視、さらにはポストコロニアル状況としてグローバル化における豊かさと貧困とが混交された状況にあっては、すでに我々の思考の外側など容易には存在しないこと、以上の思想的状況的問題を反映するためスピヴァクの叙述は複雑化せざるをえない(=異種混交性)、というのがフェミ勉で指摘されたことである
(もちろん帝国主義の段階においても状況は複雑だった。宗主国と植民地という対立図式が、植民地での女性の問題を見えなくするからである。またフェミ勉ではアルチュセールの重層的決定との関連も示唆された)。

 

スピヴァクの認識を受け入れるなら我々の思考が「第三世界」の女性たちに沈黙を強いるのは必然的である。ならば我々が「第三世界」の人々について語ることはできるのだろうか。とりわけ男性社会を自明視する男性が女性を語ることができるのだろうか。フェミ勉の話題は、この問題に進んだ。

 

だがしかし、まとめとしては、いささか冗長にすぎた。もとよりフェミ勉では、あまりに任の重すぎる問題である。そのため、この問題は各人に委ねることにしよう。

第5回4月29日フェミ勉レジュメ『現代思想ガイドブック スピヴァク』第二章から第三章まで(p.47~118)

フェミ勉次回の開催は4月29日夜9時からです。課題図書はこちら↓

 

ガヤトリ・チャクラヴォルティ・スピヴァク (シリーズ現代思想ガイドブック)

ガヤトリ・チャクラヴォルティ・スピヴァク (シリーズ現代思想ガイドブック)

 

こちらの第2章から第3章までを読んでおいてくださいませ!

以下レジュメです。7000字以上になってしまってすみません。 

 

第二章 脱構築に仕事をさせる(p.47~77)

 

スピヴァクの重要な概念源泉=ジャック・デリタ 哲学概念の一貫性と安定が差異と二項対立のシステムに依存 スピヴァクデリダ読解を検討し知的・政治的文脈に位置づけ 『グラマトロジー』の翻訳<脱構築的思考を「第三世界」女性の政治運動・ポストコロニアル文学研究・グローバルな開発への批判=スピヴァクの独自性

デリダ脱構築的戦略の基本 ポストコロニアル知識人たちにとって脱構築的戦略が生産的なのは非西洋社会の服従・略奪・搾取を説明 正当化してきた哲学的伝統を問い直す理論的言論・概念枠組みを提供 スピヴァク=デリタの軌跡を追う→植民地主義・グローバル経済の言説・「第一世界」と「第三世界」の国際的労働分業まで有効な批判を介入←デリダの思想が潜在的に有用

 

 『グラマトロジーについて』への「翻訳者序文」(p.51~52)

『グラマトロジーについて』(1976) スピヴァクの「翻訳者序文」は英語圏でデリタがあまり知られていなかった時期に書かれたもの デリダ初期の仕事に影響を与えた哲学論争を解説・知的文脈を提示(ex.ニーチェによる真実の批判・フロイトの記憶と無意識に関する理論・ハイデガーの存在に関する問い・レヴィナスによる倫理の再考・ソシュール、バルト、レヴィ・ストロースの構造言語学ラカン精神分析フーコーの言説分析)→「翻訳者序文」はデリダの思想に関して発表された哲学論文に匹敵

「翻訳者序文」が後の学者たちの研究において問題や論議を予期 正統的な哲学的デリダ批評とは異なる→西洋哲学の脱構築を使って、植民地主義の文化遺物に関する「第三世界」知識人の間で議論を拡張、発展・「第一世界」の多国籍企業による「第三世界」労働者の搾取の継続に関して西洋マルクス主義思想を活用・「第三世界」女性の歴史や生活、闘いを記述するのに西洋フェミニズムがふさわしいか問い直す

 

 脱構築ポストコロニアル的文脈(p.52~56)

スピヴァクは政治的関心をインドにおける英国の植民地教育システムを若いころに経験したことと結びつけている 「デリダは哲学の伝統を外側からではなく内側から壊そうとしている」 デリダの知的プロジェクトに向けられたスピヴァクの関心→西洋思想の伝統を掘り起こす思いに動機付けられた

 ヤング『白い神話』→フランスのポスト構造主義論の多くはアルジェリア独立戦争によって影響を受ける フランスの知識人にとってのアルジェリア独立戦争 ヤング、脱構築が知的歴史の不可欠な一部であると主張するあまりデリダの生い立ちを強調しすぎる バーバのポストコロニアル理論←スピヴァクとは対照的

 

 脱構築と他の諸世界(p.56~60)

ヤング、バーバの理論の萌芽は「翻訳者序文」に見ることができる デリダの概念構成が西洋的哲学の脱構築が西洋的人類学の批判に関係付けられている→「文字の暴力」 レヴィ・ストロースの書いた論文「ライティング・レッスン」 ナンビクワラ族

抑圧された人々に代わって語ることで、人々の声を沈黙させてしまう西洋知識人の共犯性を強調

サバルタンは語ることができるのか?」 ブバネシュワリ・バドリの自殺の解釈

 

 脱構築と概括用語(p.60~63)

スピヴァクは概括用語がカタクレシス、不適切な用語であると主張→あらゆる表象しようとする デリダの西洋形而上学脱構築が「なんらかの政治的プログラムを基礎づけるものではないが、しかしながら『労働者』とか『女性』といった概括用語が文字通り指示対象をもたないと示唆する点で、脱構築は政治的な安全装置となる」

政治的代表行為の文脈におけるスピヴァク脱構築の利用→サバルタン集団の生活に政治闘争の普遍的言説が潜在的に害をもたらしえる

 

 脱構築と倫理(p.63~68)

フランス語で政治が言及されるときの2つの意味の二項対立をめぐって展開されていたと指摘→政治性と政治活動 デリダ初期と後期の著作の差異をもっと慎重に検証すべき

デリダ初期「この問題を守り維持する機制が働いている」→後期、この守備と維持の機制に変容が生じて「完全な他者への呼びかけ」への転換 

デリダ、倫理に対する強い関心 レヴィナスを根底に

 

 スピヴァクの思考における脱構築的読解(p.68~73)

理論とその批判対象との共犯関係を脱構築が肯定すること→最大の贈物 「探求をおこなう主体の権威を、その主体の機能を保持させたままで問い直すことできる」 

サバルタンの文学的表象」(1988) インドにおける国家独立闘争での反植民地的異抵抗運動の指導者達が民衆に会立てた社会主義的・民主主義的公約を検討 反植民地運動が利用した母なるインドという神話が、厳格な階級制度を温存し下、層カーストサバルタン女性の窮状を無視と指摘

作家モハッシェタ・デビ『乳房の与えしもの』のテクスト分析→ブルジョアイデオロギー的構造物である母なるインド神話の限界 ジョショダの身体→脱植民地化が敵視していたはずの植民地的な階級・ジェンダー構造が脱植民地化の罠となって独立後も反復される事実

帝国主義と性的差異」(1986) 西洋フェミニストが普遍的なフェミニズム的主体を構築することで、「第三世界」女性の特殊な経験を無視していると批判 「さまざまなフェミニズム批評や実践が、他の言説による実践と同様、一方においてそうした実践の場を作り出しながらも、同時にその生産現場の力関係によって構築され、特徴づけられていることを忘れるべきではない」 西洋フェミニズムと「第三世界」の女性たち

スピヴァクの批判者 アッシャ・ヴァラダラジャン スピヴァクの「容赦ない共犯性の暴露」が実は実際にはスピヴァク自身からの政治的抵抗の機会を奪っている? スピヴァクの議論をおぎなうことができるのはアドルノ? ←デリダ脱構築が持つ倫理的次元とアドルノの批判哲学との類似性を無視

 

 倫理、政治そして「脱構築に仕事をさせること」(p.73~76)

脱構築に仕事をさせること」 デリダの思想を慎重にまとめ、倫理的・政治的立場を展開 デリダの著作において西洋哲学言説の概念限界から「倫理とその政治との関わりへと焦点」が移動

デリダによるレヴィナス論 倫理的脱構築は時間がかかる・脱構築を周到に思考し実行したとしても政治状況に変化をもたらすという保証はない

サバルタンに対する倫理的でかけがえのない関係を作り出すために」必要な「辛抱強い労働」 

「新しいインターナショナルについての覚え書き」(2001) インド、バングラデシュの田舎の学校で貧しい特権のない子どもたちに識字教育を奨励する教員養成プログラムに関わった経緯 デリダの「ゆっくりと読んでほしい、たとえ政治的危急なときでも」という訴えを引きながら、スピヴァクは抑圧された者たちのために語るよりは「彼女たちから学ぶことを学習するという辛抱強い仕事をしてほしい」

サイモン・クリチリー 脱構築の袋小路 「倫理から政治」への道が閉ざされてしまう

 

 

第三章 サバルタンから学ぶ(p.79~118)

 

ヨーロッパの植民地主義によって搾取され権利を奪われた歴史を持つ個人や社会集団の体験・歴史を記述するふさわしい批評言語を見つけようという努力 概括用語ではなく 

支配的な政治言説によってあらかじめ定義されないさまざまに異なる主体の位置を捉える単語=サバルタン サバルタンの有用性=柔軟さ この章ではスピヴァクの歴史家への見方と政治的代弁について

 

 ポストコロニアル知識人と政治的応答責任(p.81~83)

力を剥奪されたサバルタン集団の生活や歴史を適切で搾取に繋がらないやり方で伝えていくこと

ポストコロニアル社会での社会的・政治的抑圧体験→階級・地域・言語・民族性・宗教・世代・ジェンダー・市民権etc... 違いを超えて子範囲に存在 差異ゆえ知識人が全般的な主張を行うとサバルタン集団の持っている社会的差異を見逃す危険

サバルタン集団持つ歴史的知識・体験に対するスピヴァクの取り組みが完全に説明できるものではないということ 独自性を持っている

モハッシェタ・デビ『乳房を与えしもの』→インドにおけるナショナリズムによる解放の約束を批判 サバルタン研究集団への批判にも通底 サバルタン研究集団の古典的なマルクス主義的方法論が、インドにおける女性の抵抗の歴史を評価することを妨げてきたと強調

 

 サバルタン概念(p.83~84)

アントニオ・グラムシ→インドにおける貧困層・下級階層・小農の状況を理解するための理論源泉←ムッソリーニ政権下のイタリアの労働分業とインドにおける植民地的労働分業とのあいだに平行関係を見ていた 貧農層の社会的・政治的活動は一貫性がない≠19世紀のマルクス グラムシサバルタン解釈における一貫した政治的アイデンティティの欠如→スピヴァクによるポストコロニアル世界での決定的に重要になっていく

 

歴史叙述を脱構築する――スピヴァクによるサバルタン研究集団への批判(p.84~91)

グラムシによるイタリア史における貧農層の議論がスピヴァクの関心の鍵  シャヒド・アミンなどのインド貧農叛乱と抵抗活動の研究であり、『サバルタン・スタディーズ』 

ラジット・グーハ「インド・ナショナリズムの歴史叙述は長い間、植民地的エリート主義とブルジョア国民主義的エリート主義に支配されてきた。どちらも英国のインド支配のイデオロギー的産物だが、権力が移譲しても生き残り、英国とインドにおける新植民地主義的言説とナショナリズム的言説のなかに統合されてきたのである」

支配的な歴史記述や歴史書への批判という、こうしたサバルタン研究の歴史家たちの姿勢は、1980年代後半のスピヴァクによるサバルタンに関する初期の理論議論にとってきわめて重要 

エリートの歴史表象を批判することは明確な政治目的をはらんでいた。サバルタンの政治的な声や行動がとり返すことができないならば、それを書き直していくことならできる

スピヴァク→貧農の叛乱と社会行動がインド国家独立の歴史的語りの危機を提示・サバルタン研究の歴史家たちのアプローチを支えているマルクス主義の方法がサバルタン蜂起の複雑な歴史を記述するのに適切かどうか問う←単にマルクス主義の思想の拒否ではない

半封建主義から資本主義的隷属への移行ではなく支配勢力と搾取された集団との間の一連の政治的せめぎあいをたどるもの

 

 サバルタン研究と方法論の問題(p.91~97)

サバルタン研究集団の修正主義的な歴史記述の実践が、その方法論と齟齬をきたしているという点 サバルタン研究の歴史家たちはサバルタンを客体化し、「それぞれのサバルタン集団が持っていた独自の要因や自律性を回復しようとする傍らで、それを知識によって」統制してしまう危険を冒している

サバルタン研究の歴史家たちの実際の行為は脱構築に近いと示唆

サバルタン研究の歴史家たちに異議→サバルタンが自ら運命を統制できる主権を持った政治主体であるという発想←主権を持ったサバルタン主体そのものが支配的なエリート言説の結果にすぎない

国民を客観的構造として表象しようとするエリート集団に対し、インド社会という社会闘争の場が「連鎖した記号の鎖」・痕跡の網の目である←脱構築用語を使ってサバルタン集団や古典的マルクス主義の用語では説明できない貧農・女性・部族民といった人々の歴史と闘争を記述する方法を得る

サバルタンの文学的表象」でスピヴァクの思想にサバルタン叛乱と抵抗が表れている

モハッシェタ・デビ「ドラウパディー」→「変化しつつある歴史のひとこまにおける革命内部の女性による革命内部の女性による闘いのアレゴリー」←女性の沈黙と消去に対する一つの重要な異議申し立て

文学こそは植民地以降のインド社会におけるサバルタン女性の反抗や抵抗を表現するもうひとつの空間を提供→デビの歴史小説ポストコロニアル世界におけるサバルタン女性の自律と抵抗を具体的に表明

サバルタン叛乱の歴史に「記号システムにおける機能的変化」として接近すること

 

 サバルタンは語ることができるのか?(p.97~102)

階級と主体性に関する西洋的モデルのスピヴァクの批判→サバルタン集団を代弁しようとする善意の衝動が、サバルタンの声を利用する結果となり、沈黙を強いる

フーコードゥルーズへの批判:美学的な表象を支える=政治的表象を支える・彼らが自分たちの記述する無力な集団を表象代弁している知識人という自らの役割を隠蔽している点 主体とは言説と表象によって構築される!!←批判を明確化するためにマルクスの『ルイ・ボナパルトルのブリュメール十八日』(1852)を使用

マルクス:貧しい自作農の表象は二重の意味を持つ 美的肖像画としての表象・政治代理人による代表行為と弁別される→フーコードゥルーズの対談はこの二つの表象が混ざっている→このような混同が左翼の知識人が代弁したがる被抑圧者集団に被害を及ぼすex.工場労働者・刑務所・精神病院に収容されている人々

美的表象と政治的表象のギャップは「第三世界」に適用されるとますます大きくなるex.西洋フェミニズムが「第三世界」女性を語ろうとする傾向 西洋フェミニスト知識人と「第三世界」の女性とのあいだに平等な連帯はない

ヨーロッパ表象理論を「第三世界」の無力な女性たちの人生や歴史に適用することの限界

サバルタンは語ることができるのか?」は、現在の物質的・政治的文脈から過去の無力化され沈黙を強いられた声を掘り起こす→サバルタンの従来の定義を拡張・女性の闘いや経験を含み込んでいく

※重要※インドにおける反英国植民地闘争の歴史での女性の積極的関与が、国家独立の公式の歴史から排除されてきたという問題

サバルタン女性のジェンダーを強調することで、従来のサバルタン概念が拡大。深化する サバルタン女性の歴史的消去に対して、スピヴァクは彼女たちの物理的・文化的歴史を分節化するために、サバルタン女性が消えた痕跡をたどろうとする

 

 植民地資料における女性の歴史を回復する(p.102~106)

階級・経済的位置にだけ焦点を合わせると、インドの植民地主義から国家独立への移行期において、女性の役割と実際の営みを見過ごしてしまうと力説 ex.「シルムールのラーニー」(1985) ラーニーの特権的な社会的・経済的位置が未来の王の母親にしてラジャの未亡人というジェンダー的アインデンティティに従属させられた 重要な点①スピヴァクの植民地資料分析が「第三世界」女性の苦難に焦点を絞ることで、サイードやバーバの植民地言説分析とは異なる ②サバルタンという用語を女性も含むよう拡張することで、この語の狭い階級的定義がより複雑になったこと

インドの元首相インディラ・ガンディーもサバルタンであった→サバルタンが広い範囲の非特権集団指し示す?→サバルタンが厳格な階級制度に従属しているだけでなく、宗教・家族・植民地国家といった家父長的言説にも従属している主体であることを強調

 

 サティと表象の限界(p.106~110)

寡婦殉死(サティ)の議論 「サバルタンは語ることができるのか?」で発展を遂げる→寡婦殉死を語る文書のなかでヒンドゥー女性の政治的意思や声がどのように表象されているか検証

『ダルマストラ』、『リグ・ヴェーダ』=寡婦殉死は極めて例外的な神聖な行い・巡礼行為

サティには家父長制度的な支配構造が胚胎されている:女性の主体性の合法的置き換えと読解→女性の死ぬという「選択」が、彼女の自由意志の放棄として置き換えられる

サティという出来事がヒンドゥー文化における女性の自由意志と道徳的振る舞いに規範という象徴性を帯びていること→サティは良き妻としての女性の振る舞いを示す「例外的なシニフィアン

例外的シニフィアンが翻訳過程で分からなくなってしまう→サティを野蛮な表象とすることで、英国人は帝国主義を文明化の指名として正当化・英国人がインドの女性たちを伝統的なヒンドゥーの家父長制社会の非難すべき風習から救済しているのだと信じ込ませた

サティの議論:英国植民地政府による寡婦殉死の表象がヒンドゥー女性の声や主体的行動を見過ごしている

エドワード・トンプソン『スティー』(1927)→女性の主体性を擁護するのではなく、むしろ未亡人の肉体をイデオロギー的な闘争の道具として使い、自らの植民地権力を強化すること

スピヴァクのサティ議論は西洋の政治表象理論に対する重要な問いかけ→ヒンドゥー宗教的規範内部での女性主体の法的な置き換え・寡婦を家父長制の暴力の受動的な犠牲とする英国のやり方もサバルタン女性の社会的・政治的主体を無視している→だから「サバルタンは語ることができない」

 

 サティと植民地主義への抵抗(p.110~114)

ブバネシュワリ・バドリは抵抗運動への自らの関与を隠すために、ヒンドゥー古来の寡婦殉死に似せた自殺の儀式をとりおこなった→ブバネシュワリは寡婦殉死の規範に準拠していない ブバネシュワリの試みはインドの国民独立運動期における「戦う母親たちについての支配的な言論」に例えられる

ブバネシュワリによるサティ自殺のテクストの書き直しは「悲劇的な失敗」に終わった→男性中心国家独立闘争において「サバルタン女性は聞かれることも読まれることもない」から

サバルタンは語ることができない」という言明は政治的表象の構造だけでなく、現代の理論的モデルの限界に関して多くの議論を呼ぶ→ベニタ・パリー:無力な女性たちの歴史的・社会的抑圧をポスト構造主義の方法論で分析することは、彼女たちをさらに沈黙させる? バート・ムーア=ギルバート:サバルタン女性の抵抗が植民地支配における支配的な植民地主義の言説の中に記録されている明瞭な歴史的事実が存在する?←肝心なのはサバルタンの抵抗例がつねに支配的な政治表象システムのフィルター

 

 サバルタンは投票することができるか?(p.114~117)

サバルタンは投票することができるのか?」(1990) 1990年のニカラグア選挙に焦点を置いた→「日常会話における話し手と聞き手という直接関係」が「政治語り」にも適用可能だとする常識を疑ってかかる→「選挙の過程によって、人々が語ろうとする瞬間、人々のサバルタン性が現実に再生産される」

スピヴァクサバルタン女性の解放について完全な政治的解決や理論的定式を提供しているわけではなく、代わって語ることの限界と害を及ぼす可能性を暴こうとするだけ