Don't cry baby,please !!

少女フェミニストの備忘録

ピンク色、撤収

おはこんにちは。maiです。

この度はフラれまして、ピンク色撤収作業に追われています。

そうは言いつつも、未だに朝起きると、虚無感~~に襲われます。本当にからっぽなんだなあと。む、むなしい……。

ピンク色に染まっていたキャパシティ。ピンクがなくなれば、本当にからっぽ。

とりあえず、キャパシティにいれたものはお仕事。忙しく何も考えていなければ、忘れるだろうと踏んだのです。幸いいまお仕事は忙しい時期なので、無理くりいれて、何も考えない。言葉を放棄する、という喪の作業をしていました。

人間、仕事して、ごはん食べて、眠れていれば、生きていけるものなのですね。お仕事大好き人間になりつつあります。お金も入るしね。

そしてフラれた直後にお休みの日に2.5次元の舞台のチケットをとりました。演劇観るの久しぶり、と思いつつ、自棄にならなかったご褒美として今週末、観劇予定です。

とりあえず予定を入れまくり、ひとりにならないように、そして思考が空回りしないように、忙しなく過ごす予定です。観劇の翌日はフェミ勉です。

やるべきこと、やりたいことはやったので、後悔はありません。それで「私じゃダメ」と言われたら、しょうがない。それ以上を考えないように。

幸せだった日々はちょっとしたサプライズだったと思えば(サプライズは嫌いだけど)、あまり気にもなりません。たぶんこうしていかに言葉にするかとか考えているほうが私の性にあっているような気がします。

私は感じたこと、考えたことを言語化するのが好きなので、それで納得するタイプなので、自分のなかに言葉がない状況って安心できないし、と思って、この早い撤収は私のためであったのかもしれない、と思います。

しかし数日ほど本当に言葉がなくて、つらかったです。まあ喉元過ぎれば熱さを忘れると言いますか。言葉を取り戻していきたいと思います。私の感覚にフィットした言葉をもう一度、取り戻すために。

11月5日フェミ勉レジュメ 『女嫌い ニッポンのミソジニー』 ①「女好きの男」のミソジニー~④「非モテ」のミソジニー

①「女好きの男」のミソジニー(p.7~21)

 ミソジニーとは何か

ミソジニー=「女性嫌悪」・「女性蔑視」・「女性憎悪」 あまりにも自明であるため意識されることすらない 

 

 吉行淳之介永井荷風

吉行淳之介の小説=究極の男性支配を言語的に遂行したテキスト 奥本大三郎「しかし、女性嫌悪思想の持ち主というのは、どうしても女に無関心でいられないのか、その弱点なのである」=男性としての性的主体化をとげるためには女という他者に依存しなければならないという背理に彼らが敏感だからだ=自分を性的に男だと証明しなければならないたび、女という理解を越えた生き物にその欲望の充足を依存しなければならい男の怨嗟

男は内心どこか女なしでやっていきたいと思っている

吉行の小説=描かれているのはリアルな女ではなく、女に対する男の妄想

性の相手が多い場合=権力と金力の誇示

反俗を気取った「性の探求」小説=おどろくほど通俗的なポルノの定石どおりに展開される ポルノグラフィの到達点=女の快楽

性幻想をまきちらかした戦犯のひとり 吉行の作品を読んで女はわかるか?→女とは何か、何者であるべきか、何者であってほしいかについての男の幻想について­=「オリエンタリズム」に共通する

永井荷風=「女性嫌悪思想に連なる作家」 女を別人種と見なしていた

 

 女から逃走する男たち

男の作品を「男の性幻想についてのテキスト」として読めば学ぶことはある

性文学における女とは男の内面が成立する私的な場所

近代女性文学には男という幻想が希薄なことが特徴

対幻想は男の見た夢だった。

 

ホモソーシャルホモフォビアミソジニー(p.23~35)

 男の値打ちはなにで決まるか?

女の値打ちは男に選ばれることによって決まるが、男の値打ちは女に選ばれることによって決まらない=異性愛の秩序は非対称

男は世界の覇権ゲームが好き 覇権ゲームに勝者になれば女は後からご褒美として自動的についてきた 例)昔のホリエモン 

男同士の強い絆=ホモソーシャル

 

 男の連帯の成立条件

ホモソーシャル=「性的であることを抑圧した男同士の絆」

フロイトの「なりたい欲望」と「持ちたい願望」とを異性の親にそれぞれ振り分けることに成功した者が異性愛者になる

同性愛者=「なりたい願望」と「持ちたい願望」の性分化に失敗した者

「あの人のようになりたい」と「あの人を自分のモノにしたい」とは重なり合う=ホモソーシャルのなかにはホモセクシュアルな欲望が含まれ、連続体である

男の歴史は「なりたい欲望」と「持ちたい欲望」の調節に苦労してきた歴史。例)古代ギリシャ

ホモソーシャルな連帯とは性的主体と認めあった者同士の連帯である

ホモソーシャリティホモフォビアによって成立する 女を客体化することを互いに承認しあうことによって性的主体間の相互承認と連帯が成立する

女を自分たちと同等の性的主体とは決して認めない、女性の客体・他者化=ミソジニー

ホモソーシャリティは、ミソジニーによって成立し、ホモフォビアにとって維持される

 

 男は性について語ってきたか

猥談­=男として「性的主体」であるか相互に確認する儀式

男は本当に性について語ってきたか? 問題

男が「男になる」ための同一化と排除はひとりではできない 「差別するのは三人の人間がいる」「差別とは、ある人を他者化することによって、それを共有するある人と同一化する行為である」=性差別の定義にも当てはまる。

 

③性の二重基準と女の分配支配――「聖女」と「娼婦」という他者化(p.37~52)

 ジェンダー・人種・階級

「しょせん、人種がちがうのよ」=わかりあえないとき、わかりあう努力を放棄したとき

サイード:相手を理解不可能な存在として放逐する様式には人種化とジェンダー化のふたつがある 『オリエンタリズム』=「東洋とは何かについての西洋の知」 例)『蝶々夫人

ジェンダーと同じく「人種」も歴史的構築物である=「白人でない者」を排除することで「白人であること」を定義するための装置

トニ・モリスンの指摘:『ハックルベリー・フィンの冒険』でハックの「白人性」の確認のために黒人の逃亡奴隷が不可欠な役割を果たした→「いかにしてほんものの白人アメリカ男性が生まれるか」についての国民的物語・シンボル 白人たちが無自覚なため黒人女性によって白人研究がなされる。

明治時代:「上等人種/下等人種」=「上流階級/下流階級」 例1)娼婦は「下等人種」のなかからうまれ、生来「淫乱」だからだ。  例2)植木枝盛の言行不一致=階級による女の二重基準

 

 「聖女」と「娼婦」の分断支配

ミソジニーのアキレス腱=母 ミソジニーには女性蔑視と女性崇拝の二面性を持っている←性の二重基準

ミソジニーの歴史:近代家族の形成期に産業としての売買春が成立している

性の二重基準=男向けの性道徳と女向けの性道徳が違うこと その結果・女性を二種類に分割 生殖用の女/快楽用の女 そしてこの快楽は男側の快楽である

「分割して統治せよ」=男による「聖女」と「娼婦」の分断支配 例)日本人慰安婦と非日本人慰安婦 例2)国防婦人会の「白い割烹着」

女のセクシュアリティは生殖向きと快楽向きとに分断・対立・疎外されてきた 抑圧と搾取

 

 性の二重基準のディレンマ

性の二重基準→男側にも悲喜劇がうまれる 性の対象として見るか/みないか 愛しているからセックスしないできない?

植木枝盛の言行不一致=用途別使い分け 「身分」は越せない「人種の壁」だった 揺るがない正妻の座

「聖女」と「娼婦」の分断支配への日本での告発=ウーマンリブマニフェスト田中美津の「便所からの解放」

生殖テクノロジーのもとでは「性欲処理機械」/「産む機械」→マーガレット・アトウッド『侍女の物語』が現実に 人工授精・代理母ビジネス

男たちが震撼したのは「しろうと女」と「くろうと女」の垣根が(ほとんど)なくなったことであり、「しろうと女」に性的価値があることを「発見」した

 

④「非モテ」のミソジニー(p.53~72)

 「性的弱者」論の罠

宮台:「セックスの相手を見つけるシステムが『自由市場化』すればするほど、多くの男たちが性的弱者としてあぶれるようになる」

女性の性的弱者は「性の市場」にプレイヤーとして登場すらしない 知的障害を持った女性は女であることを剥奪される一方で、セクハラの対象になる

性の市場に登場するプレイヤーにはジェンダーの非対称がある

「性的弱者」論:弱者は社会現象であり、弱者を弱者たらしめているのは社会の側だから、社会側に救済の責任がある *女性側には反転しない

赤木智弘:自分たちのような性的弱者をキャリアウーマンは「主夫」として養う義務がある 強者男性>強者女性>弱者女性>弱者男性

「性的弱者」論=自由市場を怨嗟・性の自由市場をいくらかでも前提として認める議論は全て「強者の理論」となる

 

性の自由市場

山田昌弘:性の自由市場では「魅力資源」は不平等に分配されているが、社会的資源だけに還元されるわけではない。「魅力資源」は交換価値ではなく使用価値で測られる

性の市場が規制緩和→男にもまた「対人関係の技術」が要求されるようになる

高度経済成長期に日本で初めて「再生産平等主義」=「全員結婚社会」→結婚せずに生きていく選択肢がなかった時代の別名

 

 秋葉原事件と「非モテ

非モテ」が「男性問題」としてとらえられる→2008年の秋葉原無差別殺傷事件 凶行の原因に「非モテ」 K君は努力しても変えがたいルックスを非モテの原因にしていた

性的弱者:現実の女性からかけ離れた「女とは何か」についてほとんど妄想の域に達した固定観念を持っている 「モテ」と「容姿」こそが人生最大の問題・格差社会の根本に位置する

性的弱者である男性は恋愛市場から降りる特権すら持っている 「男から選ばれないおまえは無だ」/「女から選ばれないおまえは無だ」のジェンダーの非対称性

性的弱者:「彼女がいること」がすべてのマイナスから自分を救ってくれる逆転必勝の切り札

「彼女さえいれば」オレは男になれるのか問題→男は男同士の集団のなかで正式なメンバーとして認められることで初めて男になる 女は加入資格ための条件・ご褒美 彼女がいる=女ひとりを所有する 社会的要因を優越していても「女ひとりモノにできな」男は値打ちが下がる

男にとって女の最大の役割は自尊心のお守り役

 

 格差婚の末路

藤原紀香陣内智則の格差婚→DVを理由に離婚

勝間和代の女性がインディであるための三条件:❶年収600万円稼ぐこと❷自慢できるパートナーがいること❸年をとるほどすてきになること ❷の「いい男」の条件に「年収1千万円以上」=「女の年収に対しそれくらいの年収がないと男のプライドがもたない」

 

 「男性保護法」の反動性

三浦展:「非モテ」が現代の男性にとって死活問題・「男性保護法」を提唱

いい女=男につごうのいい女・男性を奮い立たせる女性・母性を感じさせる女性 恋愛と生の自由市場化」に反対→メリットの最大受益者は男性

 

 「男になる」ための条件

現実に、現実の女に興味があるなら、対人関係を持とうと努力するほかない コミュニケーション・スキルが問われる→コミュニケーション・スキルは他の資源のように計量したり蓄積したりできない

三浦:「かつては学校や職場では男性同士がうまくコミュニケーションできればそれでよかった」

友人関係を維持するには高いスキルがいる 定型のない関係へのシフト

「百合作品かレズビアン作品であるか」問題と「これは百合じゃない」問題に共通する不毛さ

 おはこんにちは、2.5次元沼にハマりすっかりお肌ツヤツヤのmaiです。

 今日はお題の通り百合作品かレズビアン作品であるか、という議論の不毛さについてつらつらと書き連ねていこうかと思います。

 まず個人的なことから。

「私はいわゆるバイセクシュアルで、男性を好きになったり女性を好きになったりさまざまです」

 と書くと簡潔でいいんですが、私のセクシュアル・アイデンティティは結構揺らいでいてクエスチョニングというのが一番あっているのかなあ、と考えてみたり、発情装置というか欲情のタイミングが男女で違う私はバイって言ったらなんか申し訳ないとか考えたり。悩みが尽きません。面倒くさい。我ながら面倒くさい。アラサー女がこんなことを言って、もう恋愛市場からは外れているよと嘲笑の声が聞こえてきたりもします。

 もういい。己の自意識の重さは重々に承知している。ならば、女の子を見て癒されよう!! 現実なんてどうでもいい!! こんな感じで百合が好きです、自分でも書いています。

 百合という言葉の語源にレズビアンが該当するのは『性的なことば』でも言及されています。(p.277)

性的なことば (講談社現代新書 2034)

性的なことば (講談社現代新書 2034)

 

  そしてユリイカの百合特集で、天野しゅにんたさんが「レズはひとりでいてもレズ。百合は二人のいるのを外部から見て決めるもの。本人たちがどう思っているかはともかく、外部から見てはじめて百合は百合になる」と森島明子さん発言を引用されています(p.98)。

  私ごときが森島先生に反論とは笑止と思われるかもしれませんが、私は「百合はひとりでも成立する」と考えています。

 その①吉屋信子超大先生のSの精神は「結婚への道」に対する反抗でありました。まさしく女性の自立は革命だったんです(『屋根裏の二処女』は涙なしには読めません)。

 その②「百合はふたり」なら悪しきヘテロセクシズムに毒された)カップル至上主義に百合が陥ってしまわないか、という危惧があります。

 森茉莉さんが「精神が貴族」と言い切ったように「精神が百合(ないしレズビアン)」でだいたいOKなのでは? と思います。

 こうしてみると百合作品とレズビアン作品の差ってほとんどないです。というか差をつけることに何が意味があるのか私にはよくわかりません。

 あとは語感の問題でしょうか、百合だとソフトに聞こえ、レズビアンだと生々しい。また「レズビアン=女性の同性愛者」=セクシュアルな様々な問題を想起させるけど百合はフィクションだからetc……

 くだらん。まとめて女は私の嫁だ!! とも言いたくなります。「百合作品」だろうと、「レズビアン作品」だろうと、表象に囚われず、その本質への心眼を磨くべきではないでしょうか(私はヘテロカップリンも片方を女体化して百合百合させるのが好きです)。

 昔、見たブログで私の大好きな『おにいさまへ…』というアニメが百合じゃないと憤怒されてたことをよく覚えています。「百合じゃないって言って、なにか百合作品・レズビアン作品に貢献することがあるのか?」と疑問を覚えたことがあります。

 「百合じゃないよね、レズだよね」と言って、百合作品・レズビアン作品を貶しているだけはありませんか? 別にどっちでもいいじゃん。作品が素晴らしいなら。と私は思うのです。

 

 じゃあお前はどんな作品観てるんだって言われそうですね。

 とりあえず今年最高の映画『キャロル』はおさえておきたいですね。

キャロル [Blu-ray]

キャロル [Blu-ray]

 

  私は同性の愛情を描いている作品でのアオリで「禁断の~」とか「いけない~」とかが大っ嫌いです。嫌悪しています。『キャロル』はフツーに出会って、恋してでいいじゃない、というところを体現してくれた映画。ラストのほうは小説のほうが個人的に好きです。

 最近、読んだ小説では『西洋菓子店 プティ・フール』が百合要素があって、素晴らしかったです。

西洋菓子店プティ・フール

西洋菓子店プティ・フール

 

  この本はいわゆる「転向」小説(カップリングが百合からヘテロに切り替わる)とも読めるんですが、私はむしろこの無念の「転向」の生々しさへ共感しました。あんなに荒々しい少女だった彼女が、少女であったことの魂を忘れ、ただの(男に愛されるだけの)女になってしまったという無念さ。悲しい。でもそんなこと言っている自分は? と内省を迫られますね! ああ、胸が千々に乱れます……。「転向」小説でもこういう読み方ができると思うのです。

 作品として素晴らしかったら、そこを認めようっていうスタンスです。百合・レズビアンがいかに書(描)かれいるか、その本質を見抜く力が必要だと思うのです。これからもどんどん百合やレズビアン作品を観て読んで感じて、心眼を鍛えていきたいです。

 ということで、今回はここらへんで失礼します。

2.5次元に恋して 本気の好きってなんだろう

おはこんにちは、maiです。

現在2.5次元に恋しています。初めてアイドル(?)にぞっこんラヴ。作法とか知らないので、いろいろやらかしています。ファン友達が優しいんだ、これが。

でも、「本気」や「純粋に」好きってどういうことだろ、と首をかしげています。

f:id:maix44:20160704183326j:plain

「本気で好き」って本当にどういうことなんだろう。まえ知人と感情に純度を求めすぎっていう話もしたし、上に引用した『失恋ショコラティエ』7巻のサエコさんの顔が浮かびました。

ファンだからCDも買うし、DVDも買う。でもこれって彼らの春を買っていることと何が違うんだろう、と思ってしまいます。すごい罪悪感なんです。

確かに踊る推しメンを見て元気になります。笑顔が見れれば画面越しでも嬉しいし、頑張っている姿を見れば応援したくなる。

でも、これって彼らを消費しているじゃない?って思ってまた振り出しに戻る。

消費に耐えて、CDもDVDも全部そろえてできるだけイベントにも顔を出して、それで「本当の好き」になるなら私はその純度を求めたいと思います。でも、なんか違うと思う。それでもこの罪悪感は拭えないと思います。

2.5次元だし、私はあのキャラクターを演じている推しメンが作家主義的に好き、っていうのは単なるエクスキューズでしかないと思うのです。

もう大混乱です。

「~~は私を救ってくれなかった」っていう物言いがありますが、救われるどころか、もう底なし沼にずぶずぶとハマり込んでしまったみたい。抗ってみたのですが、抗ってもこの推しメンが好きって気持ちは変わらないし、苦痛なときもある。まるで嵐のなかにいるようなものです。

もうなるようにしかならないと思っています。いつか熱も冷めるだろし、と諦めが勝っている。熱が冷めたあとのことは怖くて今は考えられません。

私は自分を痛めつけるのが好きなので、この状況すら楽しんでいるっていう業の深さ。度し難いです。

アイドルを好きさんがいらっしいましたら、ご助言頂けると嬉しいです。皆さんはどうやって罪悪感と折り合いをつけていますか?

6月24日第7回フェミ勉 レジュメ『現代思想ガイドブック スピヴァク』 第4章から第5章まで

 6月24日には第7回フェミ勉が開催されます。皆さん、ぜひご参加にご協力を宜しくお願い致します。

 参考書・レジュメは以下になります。

 

ガヤトリ・チャクラヴォルティ・スピヴァク (シリーズ現代思想ガイドブック)

ガヤトリ・チャクラヴォルティ・スピヴァク (シリーズ現代思想ガイドブック)

 

  

 第4章 「第三世界」女性と西洋フェミニズム思想(p.119~151)

スピヴァクフェミニズム思想へもっとも重要な貢献のひとつ→「第三世界」女性の現実の歴史と生活に考慮すべきである

スピヴァクの挑戦→フェミニズムとはあらゆる女性のために語るものだという普遍的な言明 スピヴァクの西洋フェミニズム思想への執拗な批判はフェミニズム思想の議論と緊急の政治的課題の強化を目的

フェミニズム西洋思想の限界と盲点を検討する 次にスピヴァクがいかに初期英米圏のフェミニズム文学批判の政治的主張に「第三世界」女性の批判的視点から異議を申し立てていったか。そして「第三世界」を基盤にして、女性が多国籍企業による猛烈な搾取→フェミニズムの政治力学の批評的枠組みと将来の目標を再定義

 

フェミニズムと差異の問題(p.121~127)

ボーヴォワールジェンダーとは社会的構築物であるがゆえに社会的・政治的闘争抗うことも可能

「反本質主義的」なフェミニズム思想家・バトラー→名づけの政治性

ジェンダーアイデンティティの言説は家族・国家・教育・法・メディアといった強力な家父長制的体制によって強化され制御されている。

スピヴァク→マイノリティ集団に対する否定的ば表象自体を模倣する戦略的本質主義

男女の性的差異への関心から「第三世界」の女性と「第一世界」の女性とのあいだの文化的差異へ移動

 

学びの解体〔unlearning〕と西洋フェミニズムへの批判(p.127~130)

どんな読解行為も社会的・政治的に深い意義をはらんでいる→「第三世界労働の搾取こそが合衆国の大学を養う源泉であり続けている」

読むという営みへの唯物論的解釈→新植民地主義におけるジェンダーの搾取に関してフェミニスト的読解の限界

西洋の学問的モデルが「第三世界」女性を平然と無視できる特権に異議申し立てる→「私たち自身の損失として私たちの特権を学びつつ解体する」→文学や歴史・メディアなどにおいて世界の支配者表象がいかに力のない集団の生活や体験を忘却するように促しているかを認識

学びつつ解体というスピヴァクの概念がフェミニズムに理論・批判に及ぼした影響

→チャンドラ・タルペード・モハンティ「西洋のまなざしの下で――フェミニズムの学問と植民地主義言説」(1988)

①西洋のフェミニズム的学問における「第三世界女性の生活の物質的・歴史的雑多性を植民地化する」傾向を批判

②「特権と自民族中心主義的な普遍性を自明視する態度」こそ「第三世界」に住む様々に異なる女性たちに破壊的な影響力をもたらす→モフセン・マフマルバフ監督『カンダハール』(2001)ブルカをかぶることが女性の屈従のまぎれもないしるしであることを強調→しかし特定の状況下では女性がわざわざ自分から選択してヴェールをかぶることもあるex.フランツ・ファノン『革命の社会学』、ジッロ・ポンテコルヴォ『アルジェの戦い』

国際的枠組みにおけるフェミニズム――スピヴァクによるクリステヴァ批判(p.130~138)

文化的違いを無視してすべての女性に代わって語るという西洋フェミニズムの普遍的主張を問い直す

ジュリア・クリステヴァの自己耽溺的な傾向=西洋的な女性の主体構築の文脈で中国女性の歴史や生活を表象しようとする姿勢を分析→スピヴァクの個人的逸話

インドが植民地状況を脱しても自分たちは解放されなかったという洗濯婦たちの思いこそが、西洋フェミニズムの「第三世界」女性に対する限界を照らし出す→「知識産業に従事するフェミニストとして私たちは彼女たちから学ばなければならない」

スピヴァクの警告:西洋フェミニズムが見落としがちな「第三世界」女性の歴史・闘争・その特殊な物理的条件を強調する→ジュリア・クリステヴァ『中国の女たち』(1977)が端的に問題が表れている

「沈黙の視線」そのものが西洋の知や主体の権威に挑戦するための手段としての他者の文化を喚起する西洋ポスト構造主義的知識人にありがちな傾向を象徴

→村人たちがいかにクリステヴァを部外者としてとらえているかをまず想起

クリステヴァが古代中国における母系的系譜にひかれるのはフェミニストユートピアを提供するように思われた→しかし現代における他の重要な社会的文化的要素から切断して女性というカテゴリーを考えることに繋がる

スピヴァククリステヴァの中国女性論は、彼女が中国における歴史的位置について包括的な一般化をおこなっていることからも自己中心性を露わにする

クリステヴァの『中国の女たち』での政治的関心は中国の貧農女性の現実の物理的現実になく、ヨーロッパ文化における女性の身体的存在の理論的抑圧にある

クリステヴァの関心はそもそも中国文化や社会における女性の歴史的位置にない

クリステヴァによる女性の性的欲望の革命的性格づけはあまりに直裁で、女性同士の間に存在する重要な文化的・歴史的違いを無視している→より洗練された見取り図「女性のセクシュアリティの地理学」を立てる

 

女性のセクシュアリティの地理学(p.138~141)

フェミニズム思想において女性の生殖を目的としない性的快楽を称揚することが、「第三世界」女性の政治的目標としてどれだけ有効であるか→女性割礼を例に

クリトリス切除をするすべての女性の性的快楽の象徴的な抑圧として再定義するスピヴァクによって、それは女性の社会的・経済的苦難という全般的状況を示すものとされている

「第一世界」においては「女性性を定義する子宮に基づく規範」が、「家屋の所有と核家族の神聖さに至上の価値を置く発達した資本主義の全体」を支えているのだが、「発達が遅れた国では性的主体に象徴であるクリトリスを抑圧することが、そうした状況にある女性に対する特有の弾圧として機能しており、そこでは女性は多国籍企業が遠隔理操作で利益を抽出するシステムないで最下層にある低賃金労働として位置付けられている」

「乳房の与えしもの」において「女性の身体の過剰さを示しているのが、クリトリスの刺激による性的絶頂ではなく、がんである」

 

「三人の女性によるテクスト」と女性的個人主義に対する批判(p.141~150)

女性のセクシュアリティの地理学を作るというスピヴァクの探求をさらに発展したのが、「三人の女性によるテクストと帝国主義」(1985)だ

「三人の女性によるテクストと帝国主義」が言及するのはシャーロット・ブロンテ『ジェーン・エア』とジーン・リス『サルガッソーの広い海』メアリー・シェリー『フランケンシュタイン

ジェーン・エア自身によるブルジョア女性個人主義の語りのなかに隠された帝国主義的サブテクストをたどる

バーサ・メーソンの歴史的意味 歴史的・文化的に存在を否定されジェーンの西洋女性的自己の安定性を保証するオリエンタルな他者として機能

スピヴァクによる『ジェーン・エア』読解:帝国主義の時代のフェミニスト個人主義として位置づける。バーサとジェーンの間に存在する根本的なジェンダー的差異を説明することができる。女性の個人主義というジェーンの物語が、結婚と子育てという家庭用語でできているとすれば、バーサは「帝国主義の定理」によって定義される

バーサ・メーソンの視点からの『ジェーン・エア』を書き換えであるジーン・リスの『サルガッソーの広い海』

バーサの生産能力のある身体をロチェスターの私的所有物として法的に定義すること→「サバルタンは語ることができるか?」におけるサティの議論を先取りするもの

ジェーン・エア』におけるサティの重要性は多くの家父長制的社会において、女性の生殖能力のある身体を私的所有として法的に定義することが女性主体構築の一般的条件であることを考えれば明らかである。

19世紀のブルジョア女性個人主義と20世紀の西洋フェミニズムとの歴史を結ぶことで、スピヴァクは西洋のフェミニズムの歴史が帝国主義的拡張のプロジェクトと共犯関係にあることを暴く

 

 

第5章 唯物論と価値(p.153~183)

労働者と資本家との間の労働分業という伝統的なマルクス主義の語彙を再活用し、女性の経済的収奪を「第一世界」と「第三世界」との国際的労働分業と関係づける→フェミニズム思想だけではなく唯物思想も必要で、スピヴァクによるマルクスの再読

 

マルクス再考(p.154~158)

共産圏が崩壊して以来、現代の西洋思想にとってマルクスは時代遅れ

ポストコロニアル世界においてマルクスによる19世紀ヨーロッパの資本主義批判がいまだに現代の経済世界に有用という皮肉

マルクスの欠点→資本主義の分析をヨーロッパに限ったこと

第三世界」の借金と現代の国際的労働分業が「デリダ以降のマルクス再読」を理解する文脈となる

マルクス思想にあるヨーロッパ中心主義は批判されるべきだが、価値や政治経済について後期の議論を検討→マルクス思想がポストコロニアル状況における現代の文化・政治・経済を考えるのに重要

 

デリダに従いながらマルクスを読む(p.158~162)

マルクス再読にあたってジャック・デリダ脱構築哲学を通して著作に接近

デリダを通過してマルクスに行くことは、『哲学的』テクストの『文学的』ないしは『修辞的』読解であると言われてしまうかもしれない」←マルクス自身が読解という営みと政治的変革との分割を疑っていたことを見過ごしている→理論と政治の分裂

スピヴァクマルクスの後期の経済哲学に脱構築批評を適用するのも、安直で教条的なマルクス解釈予防→解釈行為から政治的変革への要求が性急すぎる

マルクスの初期思想に哲学的倫理的側面から挑戦する試み

哲学的試み→経済的平等と政治的解放をめざす労働者階級の闘争

倫理的試み→ヨーロッパの産業労働者階級の名の下の普遍的主張が力を奪われた集団を排除していた

スピヴァクの焦点→『資本論』や『経済学批判要綱』などの後期経済学的著作

後期マルクスを重視する①脱構築的運動を見出している②現代の「第三世界」における女性の生産能力のある身体に対する搾取への具体的取り組み

→男性中心的・ヨーロッパ中心的なマルクス思想を是正する試み

 

19世紀ヨーロッパの資本主義から現代の国際労働分業へ(p.162~164)

19世紀ヨーロッパの労働者階級の男性の状況だった

現代はグローバル資本主義が発展途上のポストコロニアル国家で労働者階級を雇用

19世紀のヨーロッパ男性労働者と現代の女性労働者の非対称性

 

労働者階級の身体を再考する(p.164~166)

モハッシェタ・デビ小説「慈悲深きドゥーロティ」 国家独立にともなう解放の約束にも関わらず、債務労働や売買春のようなジェンダーと階級に基づく旧来の搾取形態がポストコロニアルであるインドで行われていることを強調

サバルタン女性の身体に刻まれた知がいかにマルクスの経済的・政治哲学的再考に結びついているか

 

スピヴァクマルクスと価値をめぐる労働理論(p.166~173)

「価値の問題に関するとりとめのない省察」→観念論によって意識として、唯物論によっては労働力として、主体が構築される

『ポスト植民地主義の思想』のインタビュー 「いわゆる『第三世界』こそが『第一世界』の富と文化的自己表象も可能性を産出していると示唆することが可能だ」→マルクスによる19世紀の価値理論を現代の「第一世界」と「第三世界」との国際的労働分業に関係づけることによって、マルクスの労働価値理論がいまだに重要であると力説

注意:マルクスは「使用価値」という概念を理論化しなかった

ある商品の価値はその物体の内在的特質や使用価値で決まるのではなく、交換価値から使用価値を抽象的に抜き出すことによって決められるex.ナイキの運動靴の価格

→抽象化された人間の労働をおこなう亡霊のような身体が忘れ去られ、交換価値の金銭と資本の流通への交換が不可避で普遍的な過程として表象されてしまう

マルクスの労働価値理論を支える論理に異議を唱え、それが資本主義と社会主義との安定した対立関係に基づいていると批判

人間の労働という亡霊のごとき存在が「不確定性の可能性」として機能する仕方

マルクスの思考法を批判 背景:デリダによる西洋哲学の二項対立の脱構築という支え

両面価値的で幽霊のような使用価値のありようを強調すること→「価値を交換価値とし、交換価値以外の何ものでもないものとして」書き換えるマルクスの批判者たちの立場に異議を唱える

火急の政治問題にどのようにスピヴァクの政治理論が適用できるか?

 

経済決定論に対する批判(p.174~178)

マルクスの欠点:ヨーロッパ社会における男性労働者と資本家とのあいだの労働者分業を特権視し、それを社会関係の構造原理としたこと→ルイ・アルチュセールは経済決定論→ジェンダー・人種・セクシュアリティに基づく社会的抑圧が見過ごされる

ワルターベンヤミン「文化の記録でありながら、同時に野蛮の記録でないようなものは何ひとつない」

→西洋のカルチュラル・スタディーズによる経済を度外視した文化やアイデンティティへの注目傾向が、中東での西側諸国の外交政策インドネシアなどとの「自由」貿易協定という現代の野蛮を見過ごしている

=「グローバルに機能する経済を無視した『文化主義』では、それに伴っている野蛮の生産に取り組むことができない」

マルクス主義の経済的視点こそ現代のグローバリゼーションや国際的労働分業を批判的に理解するのにきわめて重要

マルクスの読み直し:マルクスの労働価値理論が現代のグローバルな経済システムに関して持つ批評的・政治的重要性を指し示す

→「労働価値論をポスト産業社会では役立たないと批判したり、経済的指標として意味がないと考える人たちは、第三世界という闇の存在を無視しているのだ」

特に力説「第三世界」における労働者階級の女性たちこそが「国際的労働分業最大の犠牲者」ex.多国籍企業の利潤とスリランカの女性の稼ぎ

 

資本論』を脱構築する(p.178~182)

現代のグローバルな資本主義の理論が消去しようとしているのは、サバルタン女性の労働力という使用価値

サバルタン女性の生産的な身体の使用価値こそがまさに、第一世界における蓄積と安くて使い放題の資産を産んでいることに注目

資本主義は人間の身体に備わった余剰エネルギーを使うことで、資本家は実際に支払うより多くの労働を得ることができる

マルクス主義それ自体が哲学的システムによっては資本主義の社会的不正義を説明できない

「才能」という名の亡霊――小説を書く覚悟

 いま私は新人賞に応募する用の小説を書いています。大事なのはそこで「選ばれる」ことではなく(もちろん1000倍以上のの倍率を潜り抜け選ばれたらすっごくすっごく嬉しいですが)、とにかく書き上げることを目標にしていることです。それが私に課した義務だと思っています。さきのことはどうなるか、わからないですからね。書き上げることなく不慮の死を遂げる可能性だってありますし。書き上げるまでは死なない、が私の目標です。

 

 友人のMさんから、小説を書く才能とは? というご質問を頂いたのですが、私は才能なんてないので、この質問はナンセンスだとまず言っておかなければいけません。私はまだ(プロの)小説家にはなれていませんから(自己暗示はかけていますけど)。私の知る範囲では、小説は書けます。忍耐と体力と孤独に耐える力と自分自身を信じることができれば。それに私は才能という言葉が嫌いです。

 まず才能があることと、才能を磨くことと、才能を他者から認めらることは全く違うことです。しかもこの才能というやつで、そのひとの人格を嘲り、崇拝したり、貶したり、褒めたたえたり。まったく無意味なことです。私はこの質問から羽海野チカさんの『ハチミツとクローバー』を思い出しました。

 

 『ハチミツとクローバー』の登場人物たちは、みな才能という亡霊に取りつかれています。それでも懸命に生きようという必死さに胸を打たれます。

 「何か残さなきゃ生きる意味がないなんて、そんなバカな話があるもんか」

 あるキャラクターに羽海野さんは言わせます。過剰に生産性(私たちが生活している上での労働からリプロダクティブまで)を意識させられる昨今、この言葉は非常に多くの方々に届いたでしょう。

 何かを残す必要なんてないんです。ただ自分が忘れられる覚悟をしていれば、怖いことなど、何もないと私は思うのです。

 私は、何度も言いますが、自分に才能があるとは思っていません。ましてや他人から認められるものは、持っているようには思えないのです(そもそも私の「所有」しているものの少なさよ!)。

 私はいい歳のおばさんなので、諦めることがうまくなりました。諦めは人生における洗練だと思うのです(ドント・トラスト・オーバー・サーティー!!)。どんどん諦めて、それでも執着することとは何か? 私には書くことがそれでした。届かない想いを抱き続けることは私にとっては日常でした。それが書くことに代わってもなんら苦痛ではないです。書くことは私にとって叶わないと分かっているような恋をすることです。

 とにかく制約なしで(私は「やさしい百合物語」を書こうと努力してきました)、自分のやりたいようにやろう、と決めてから(決めるまでずいぶんかかりましたが)、私は楽になりました。

 たとえ、私のことを忘れ去られてもいい。

 たとえ、私が書くものが打ち捨てられてもいい。

 それでも私がいま祈りのように書いている小説は決して無駄ではないと盲信しています。

 信じる力は想像力に直結すると思います。私はただ自分の今まで触れてきた物語たちへのささやかな恩返しができればいいのです。

 まあ偉そうなことは書きあがってから言うべきですよね。これがまたロンギング&ワインディング・ロードだから困ったものです(本当に……)。とりあえず書くことだけは覚悟が決まったといいましょうか。それは私の義務のひとつかもしれません。

 とりあえず今日もちまちまと書いていきたいと思います。そんなmaiでした。

第6回 フェミ勉まとめ

 5月27日に行われた、第6回フェミ勉のまとめとなります。課題図書はヤマシタトモコさんの『HER』とよしながふみさんの『愛すべき娘たち』でした。

 今回はJさんがまとめてくださいました(Jさんありがとうございました)。主催含め7名が熱く、時には脱線し、さまざまな話をさせて頂きました。参加された皆さま、本当にありがとうございました。また次回のフェミ勉も開催したいと思いますので、どうぞよろしくお願い致します。

 

第6回 フェミ勉 課題図書「HER」と「愛すべき娘たち」

主催者によれば、今回漫画を選んだ理由は、スピヴァク読解から見えてきたシスターフッドへの懐疑を問い直すためということ。
 
HERに対しては、リアルな時代的感性(ファッションセンス、嫌な男等)を読み取った人が多く、年齢に応じた同調圧力や自意識を息苦しく感じ理解の限界を人もいた。後述の愛すべき娘たちと比べて、作者の出自が庶民派であるためか、エネルギーに満ちた女性に焦点が当たることも多い。すべての厄災は母親に由来するという言葉がキーとなっているということで一致。議論は実際の母と娘の関係に移ったので、男性陣しばらく沈黙して拝聴。
1.母親と娘の議論
父親の不在と母親との葛藤のない関係が描かれている。実際にはドライでありながら、子供を自らの投影とみなしていたりするアンビバレントな側面がある一方、一時期は完ぺきにも思える存在でもある。
父子関係と母子関係の違いは、父親は成長することで殺すこと(相対化)ができる存在であるが母親は殺すことができない。しかし一度は殺しつくすことを志すべきである。
他人も母親との葛藤を抱えていたと知ること自体に、安心感を覚える。
密着型の母親像と放任型の母親像の乖離は、父親と子供の関係に影響される。
愛すべき娘たちの母子家庭や虐待のケースにおいては、父親の存在は影ながら大きな役割を担っている。
母と娘の距離が適切でない場合、父親と母親の関係に問題がある場合がある。
母親は娘に認められたいと思うのでは?
父親不在の物語は、大人になりたくない読者の気持ちを反映する。
大人になるということは、大人になるということに拘らなくなることなのかもしれない。
大人になれば服装も自由になれるが、長子であることの責務等ものしかかってくる。
2.閉鎖的な地域社会や家父長制の「呪い」についての議論
祖父母世代と比べて、社会情勢の変化等あるが、基本的には目に見えない形で(例えば経済的な問題、「分骨」は是か非か、介護の担い手問題)に存在している。血縁関係の難しさ
シスターフッドは血縁に依らない。
キブツミクロネシアの例も一種のシスターフッドではないだろうか。
しかしここで問題なのは、家父長制ももともとは相互扶助の枠組みだっただろうということで、今それが抑圧的になっているのは単に時代に合わなくなってきているという相対主義だろう。
抑圧的な側面は、例えば血縁関係は替えが効かない分、失敗すると取返しがつかない。
例えば良い嫁であろうとすることといい母であろうとすることは矛盾する。
結婚する目的は子作りであるなら、出産に数十万もかかるのはおかしいので、出産に合理的根拠はなく、少子化の現状もまた必然なのかもしれない。
3.階級としてのHER
這い上がるエネルギーはカーストによって違う。
バイトでグランドピアノを買った人と比べて、親のお金で大学に行った自分は、人間的に弱いのではないだろうか?という疑問。
一方でHERケース5の貧しい家庭に育った主人公は、生活も心もゆとりがある女性に対して劣等感を抱いている。
 
感想
以上がフェミ勉で話された内容で、メモできた部分の要約です。
1~3の部分はそれぞれ別の問題提起をしているとともに、同じ問題について語っていますが、特に興味深く思うのは、2の「キブツミクロネシアの事例も、いずれは現在の家父長制のように抑圧的になるのでは?」という疑問を全員が共有していた点でした。
この漠然とした問いは、シスターフッドそのものへの懐疑というより、よくある類の現代社会への懐疑なのでしょう。
いかにしてこの懐疑を超えたところに、シスターフッドを見出していくかが今後、問われていくのだろうと思います。