Don't cry baby,please !!

少女フェミニストの備忘録

『「赤毛のアン」の秘密』を読んで

 今月は22冊も本を読み、いい加減、脳みそがパンクしそうなのでブログを書いてます。

 私は子どものころ、まったく活字を読まなかったのです。読むのはマンガ。『りぼん』や『なかよし』の全盛期だったので、小説なんかよりマンガのほうがキラキラして綺麗だし、文字も多くない。そんなふうに思っていた子どもでした。

 私の母がしぶしぶ買い与えたのはモンゴメリの『赤毛のアン』(これは海外ドラマに基づき再編成されたアン)とアンデルセンの『絵のない絵本』。買い与えてくれてもほとんど読みませんでした。しかし『赤毛のアン』の表紙は素敵だったのでインテリアとして飾っていました。

 そんなこともあったねと、もう、うん十年前のことを思い出したのが、最近です。

 

 なんで『「赤毛のアン」の秘密』を読もうかと思ったのは、子どものころからの読書家の兄が唯一――と言っていい――読書をリタイアしたのが『赤毛のアン』だからです。

「アンは夢想家でいちいち自分の妄想をマリラに言うんだ。で、一蹴りされてはまた妄想を話す。それが百回続くんだぜ……耐えられない」

 と言う兄の顔には疲労が浮かんでいました。

 『赤毛のアン』の冒頭はこんな感じ。

アヴォンリー街道をだらだらと下って行くと小さな窪地に出る。レイチェル・リンド夫人はここに住んでいた。まわりには、榛の木が茂り、ずっと奥のほうのクスバート家の森から流れてくる小川がよこぎっていた。森の奥 の上流のほうには思いがけない淵や、滝などがあって、かなりの急流だそうだが、リンド家の窪地に出るところには、流れの静かな小川となっていた。

   (『赤毛のアン村岡花子新潮文庫)

  今、読んでみると少女マンガの原風景が見えるじゃありませんか! 「アヴォンリー街道」とか「榛の木」とか! そうです、赤毛のアンは少女マンガに多大な影響を与えていたのにようやっと気づいたのです。

 

 それで『赤毛のアン』についてちょっと調べてみようと思って、小倉千加子さんの『「赤毛のアン」の秘密』(岩波書店 2004)を手に取りました。

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 『「赤毛のアン」の秘密』の冒頭、驚くべきことは海外ドラマではあんなに豊饒そうなプリンス・エドワード島が小倉さんの目には荒寥とした風景に映っていたことでした。

 プリンス・エドワード島に来る観光客はほとんど日本人女性だそうで、それにも驚き。アンってアメリカやカナダじゃ当たり前に読まれている本じゃなかったのか……と。

 とにかくなんで、日本の文化に『赤毛のアン』がこんなに馴染んだのか、気になってしまい、文字通り、貪るように読んだのですが最終章の「ロマンチックの呪縛」という章が印象的でした。

 なぜ『赤毛のアン』は日本で慣れ親しまれるようになったか、それを「ロマンチック」という言葉で小倉さんは説明しています。

 ロマンチックとは先ず第一に日本人にとって未知の、外部の世界の文化・文物への憧憬を内包した感情である。

しかし第二に、その外来の世界への憧憬とは、かつて「舶来」という言葉で表現された欧米先進国の文化・文物を指し、アジアや中近東やアフリカのような、近代化の遅れた国の文化・文物に対するものではない。(中略)

つまり、第三の条件とは、ただ金さえ出せば手に入るようなものではなく、大衆には手の届かない高貴なもの、ある種の精神性が刻印されていることなのである。(中略)

ロマンチックの第四の条件は、それが人には未知のものであるように見えて、実は意識の底で「既に知っているもの」への憧憬であることが、ここで明らかになる。

   (『「赤毛のアン」の秘密』p.265-267)

  そうして小倉さんは明治期の日本の風景へのノスタルジアが描かれていることを指摘している。

 多くの少女マンガも四つの条件に当てはまっている。これは偶然ではなく、必然で「少女小説」から少女マンガが派生しているからだ。

 小倉さんは結びにこんなことを書いている。

アイデンティティなど確率しなくてもいい、「自立」も「独立」もしなくてもいい。

「そのままのお前でいい」と肯定してくれる「故郷」(=親)の理想的な姿が、『赤毛のアン』にはある。

すべての欲望は、少女から始まるのである。

   (『「赤毛のアン」の秘密』p.279-280) 

  少女の物語が、この自己肯定から始まっているのは大変興味深い。少年の物語はすでに存在が承認されていて、いかに成長していくかを主題にしているのに対し、少女の物語は「まず自分を肯定すること」から始まる。これもジェンダーの根本的な非対称であると言えるだろう。

 

 しかしモンゴメリさんはあまり幸せな人生を送ったとは言い難いです。自己を律し、「不幸な」結婚生活を送り、なおかつ非業の死を遂げたモンゴメリさん。『赤毛のアン』がいま少女マンガを代表するような原形になっているとはきっと思いもよらないでしょう。

 モンゴメリさんが生きていたら、今の世界は心地良く、『赤毛のアン』という名作は生まれなかったと、私は思います。