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Don't cry baby,please !!

少女フェミニストの備忘録

少女フェミニストとは誰か

 ブログ第一回目の自己紹介で「少女フェミニスト」を自称しているとさらりと書いてしまいましたが、いったいそんなのあるの? あったとして、いったいどういう存在なの? と思われるひとも多いかと思われて、大塚英志さんの『江藤淳と少女フェミニズム的戦後』をひっぱり出して、さらに本棚から鼎談本『男流文学論』そして吉澤夏子さんの本をぺらぺらめくりはじめました(ここまで一息に)。

 

江藤淳と少女フェミニズム的戦後 サブカルチャー文学論序章』(2001年 筑摩書房)は大塚英志さんの大著・『サブカルチャー文学論』のまさしく序章にあたる本で、その文章のジェンダー・センスに私はため息をついたものです。

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 少女フェミニズム(言葉が被っているようなきがしますが)は大塚英志さんの造語です。ここで言おうとしている少女フェミニズムとはいったい何か。大塚英志さんは上野千鶴子小倉千加子富岡多恵子さんの鼎談本『男流文学論』のから読み取れる上野千鶴子さんの江藤淳への考察をこう、言っています。

上野(千鶴子)のフェミニズムは、リブからの流れを継承するいわゆるフェミニズムと、もう一つ、このなんとも不安定な「女の子」的なわたしに輪郭を与えていく言語としてのフェミニズムという二重の構造を持っている。それは決して上野の思想価値を下げることにはつながらず、むしろ’80年代に輩出した数多の フェミニズム的言説の中で上野だけが「女の子」フェミニズム的な感受性を持ち得たからこそ、彼女のフェミニズムは特別な存在だったのである。

   (『江藤淳と少女フェミニズム的戦後』p.78-79)

  上野さんのマルクス主義フェミニズム(『家父長制と資本制――マルクス主義フェミニズムの地平』1990 岩波書店)に代表されるフェミニズムとこの「女の子」フェミニズム(『発情装置 エロスのシナリオ』1998 筑摩書房)を両立していることに注目している。

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 大塚英志さんは論壇から失笑と黙殺を食らった『男流文学論』の鼎談者の考えを正しく読んでいるとは言い切れません。小倉千加子さんや富岡多恵子さんを「ジェンダーを超越した化け物のような人たち」と称していますが、小倉さんはあの、少女主義でノーブルな森茉莉の全集の編集に携わっていました。

 

『男流文学論』はフェミニズム的(女の子のつかない方のフェミニズム)パフォーマンスで行われた鼎談なので、上野さんのこの女の子フェミニズムがより顕著に大塚英志さんには映ったのでしょう。

 

 つまり少女フェミニズムは「少女マンガ的な繊細さを持っているフェミニズム」なのです。

 ここで言う、「少女マンガ」は萩尾望都であり竹宮恵子であり山岸涼子であり大島弓子であり吉野朔実であり岡崎京子であり高屋奈月でありetc……で構成されています(挙げきれない)。

 私は(少女のつかない)フェミニズムにももちろん興味があります。大学二年生のときまったく用語が分からない上野さんの『家父長制と資本制』を泣きながら読んだりしたりしていました。また『サバルタンは語ることができるか』とか『ジェンダー・トラブル』をひいひい言いながら読み、女性専用車両にキレて鬱憤を晴らそうとしている迷惑な輩に憤り、「女性手帳」を配布しようとする行いに署名活動で抗議もしました。

 この大枠のフェミニズムも大事だと思うのですが、(たとえ誤読で生まれた「男」の言葉でも)また少女フェミニズムも必要なのです。そして大枠のフェミニストは多くいるけれど、少女フェミニストはごくまれにしかいません。

 それじゃあ、その役割をささやかながら私も果たしてみたい、と思って少女フェミニストと私は名乗っています。

 

 いまいちよく分からないというひとはまだまだいると思います。ここで少女フェミニストである(私が勝手にそう認定した)、吉澤夏子さんの思想について触れていきたいと思います。

 

「個人的なことは政治的である」というテーゼは、その内容が必ずしも周到に吟味されることなくスローガンとして使われる一方で、経験的な事実としては、誰もがこの区別(公私区分)を受け入れている、という捻じれた状態がつづくことになった。「個人的なもの」や「政治的なもの」がいったい何を意味するのか、をめぐる繊細な議論はあまり行われてこなかったのである。(強調筆者)

  こんな一文で始まるのが吉澤夏子さんの『「個人的なもの」と想像力』(2012 勁草書房)です。

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 吉澤さんはミスコン批判やアグネス論争に対して違和感を持ってフェミニズムの困難』(1993 勁草書房)や『女であることの希望』(1997 勁草書房)を書いてきたフェミニストです。

 私は吉澤さんの物事の腑分けかたに至るこまやかな考察に感動しました。まさしくこの腑分けこそ、少女フェミニズムには必要なことなのです。善/悪、美/醜、自然/人工 etc……二項対立に引き裂かれたものをグラデーションをつけて区分けしていき、なにが問われるべきか再考します。これは要約がかなり難しいので実際、手に取って読んでみて欲しいフェミ本です。

 さて大塚英志さんの江藤淳論から遠く離れて、吉澤夏子さんまできました。私のなかではすべて繋がっています。

 「男の作った言葉にコミットメントするなんて馬鹿じゃない?」と言われそうですが、かつてフェミニストと(オタクでもヲタクでもない)おたくは仲が良かった、そして大塚英志さんは「正しい」おたくであるという事実が私のなかではありますので、そこに違和感はありません。

 ここでアーシュラ・K・ル=グィンが言った言葉を思い出します。「『性別』というものに疑問に思ったら、すでにフェミニストなのです」。