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Don't cry baby,please !!

少女フェミニストの備忘録

小説、この無能なるもの

 お久しぶりですmaiです。

 師走は泣かないででCLUB NAKEDの完結に追われ、年を明けたら帯状疱疹・歯が欠けるなどに見舞われて、落ち着いて読書もできない状態でしたが、なんとか復帰しました。とりあえず今日は5冊、本を読みましたよ。

 そのなかでも『アラブ、祈りとしての文学』(岡真理 2008 みすず書房)は今こそ再読の価値があるのではないでしょうか。

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 岡真理さんの本を私が初めて手に取ったときが19歳。岩波書店の『思考のフロンティアシリーズ 記憶/物語』(2000)でした。何か分からないけれど、すごい熱気を文章から感じました。分からないなりに、バルザックを読み、スピヴァグを読み、クロード・ランズマンの映画・『ショアー』を観ました。

 そして岡真理さんの著作を追いました。『彼女の「正しい」名前とは何か――第三世界フェミニズムの思想』(2000 青土社)、『棗椰子の木陰で――第三世界フェミニズムと文学の力』(2006 青土社)。『彼女の~』は主軸に女性割礼を置いて、グローバル・フェミニズムの無知さを暴きだし、『棗椰子~』では『千夜一夜物語』がいかにフェミニズム文学として優れているか証明しています。

 『彼女の「正しい」名前とは何か』、『棗椰子の木陰で』、『アラブ、祈りとしての文学』に共通するテーマは、かつてサルトルが言った、「アフリカで子どもが飢えて死んでいるとき文学は無力である」への反発です。

 無能なら、なぜ文学は、小説は存在しているのでしょうか。

 小説、この無能なるもの。

『わたしを離さないで』は、アウシュヴィッツへの応答であると同時に、サルトルの問いに対する、作家イシグロの実践的応答として読むことができるだろう。彼らは人間らしくそのまま生をまっとうすることはできないのだと、世界から当然のように見放され、その生も死も、世界に記憶されることのないこれら小さき者たちの尊厳を、小説こそが描きうるのだという応答である。それはまた今日の世界におけるパレスチナ的現実への応答であり、これら祈ることしかできない小さき人々に捧げられた祈りでもある。祈りとしての文学――。

   『アラブ、祈りとしての文学』p.17 

  それでは祈りとはいったい何か? 岡さんは私の知らないアラブの小説を上げながら、小説について、祈りについて、饒舌に語ります。その過程がとても大事です。こればっかりは実際に『アラブ、祈りとしての文学』を実際、読んでほしいです。私が書いていることは、いわば推理小説の犯人をネタバレしているようなものです。

飢えて今にも死にそうな子どもは本など読めないにちがいない。だが、その子が実際問題として文学を読めないという事実は、その子が文学を必要としていない、ということを意味するのだろうか。瀕死の床の中で小説が読めたとして、その子は遠からず死ぬ。だが、その子が死ぬことが100パーセント確実であるとして、だから小説 はその子にとって無力である、いま小説を読むことがその子にとって何の意味もないと、なぜ、言えるだろう。

   同上p.13

  岡さんの自問自答は続く。

では、祈ることが無力であるなら、祈ることは無意味なのか、私たちは祈ることをやめてよいのか。しかし、いま、まさに死んでゆく者に対して、その手を握ることさえ叶わないとき、あるいは、すでに死者となった者たち、そのとりかえしのつかなさに対し、私たちになお、できることがあるとすれば、それは、祈ることではないのだろうか。だとすれば小説はとはまさに祈りなのだ、死者のための。人が死んでなお、その死者のために祈ることに「救い」の意味があるのだとしたら、小説が書かれ、読まれることの意味もまた、そのようなものではないか。

薬も水も一片のパンも、もはや何の力にもならない、餓死せんとする子どもの、もし、その傍らにいることができたなら、私たちはその手をとって、決して孤独のうちに逝かせることはないだろう。あるいは、自爆に赴こうとする青年が目の前にいたら、身を挺して彼の行く手を遮るだろう。だが、私たちはそこにいない。彼のために祈ること、それが私たちにできるすべてである。だから、小説はそこにいない者たち、いなかった者たちによって書かれるのだ。もはや私たちは祈ることしかできないそれらの者たちのために、彼らに捧げる祈りとして。

  同上 p.301 

  岡さんはまた以下のように書く。

 私たち自身がいかなるネイションに属そうと、小説を読むことで作動する人間の想像力は、人間的共感を「われわれと同じネイション」のあいだだけにとどめて他者の人間性を否定するイデオロギーと、根源的に対立せざるをえない。からである。だから、小説を読む者たちは潜在的に非国民である。

   同上p.306

  『アラブ、祈りとしての文学』を読んでいる最中に、イスラム国に拉致された後藤健二さんが殺されたというニュースが入りました。

 いま私にできることは無能と謗った祈りが届くように、と願うばかりです。