読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

Don't cry baby,please !!

少女フェミニストの備忘録

荒野のフェミニズム

 お久しぶりです。maiです。このところ文学フリマ東京の原稿をしたり、お引越しをしたりとすっかり少女フェミニストとしての活動がおざなりになっていてスミマセン。月一冊の論文ノルマは果たしているのに、それを文章化する手間をついつい惜しんでしまい今に至っております。生きることっていうのは食う寝るだけじゃないですからね。ご容赦ください。

 

 さて今回ご紹介するのは、岡野八代さんの『フェミニズムの政治学 ケアの理論をグローバル社会へ』(みすず書房 2012)です。

f:id:maix44:20150331004426j:plain

 お値段は4200円でかつ注・後書きを含めると429ページ。大著であります。ジュンク堂で見つけたとき、これはぜひ読まねばと、恋に落ちた一冊です。日本のフェミニズムかつ「政治」を論じた本ってなかなかないよね、不勉強だから上野千鶴子さんの『ナショナリズムジェンダー』くらいしか思い浮かばない。まあそんな私でもなんとか読了致しました。

 この本ではとは自立/自律した主体が、ひとの営みを勝手に私的(女性)/公的領域(男性)の二元論に分けて、公的領域は政治とか論じてエラいけど、私的領域なんて語るに足らない、というリベラリズムフェミニズムをもってしてバッサバッサと斬っていく、という本です(すっごく大雑把に言うとね)。リベラリズムを斬ったあとフェミニズムはどのような政治状態を望んでいるのか、ロジカルに書いています。

 まず第一部がリベラリズムの特性である、公私二元論に注目してどのように私的領域と公的領域が生まれたかの歴史的背景と哲学からの考察(この本はプラトンからデリダまでさまざまな哲学者が出てきます)、そしてフェミニズムリベラリズムとなぜ相容れないかを書いています。

 ここで岡野さんが注目するのが「自律した主体」というもの。そもそも他人に依存しない主体など存在するのか? ひとが生を受けるには、他人がいて初めて生を受けるわけで、そして赤ん坊が成長するには面倒をみてくれる=ケアが必要である、ということ。「自分のことは自分で決める」確かに正しいように聞こえるが、決定とはさまざまな条件・状態・政治的背景があって初めて決まる、ということを忘れてはならない。リベラリズムはそんな背景を脱政治化・自然化・忘却する政治なのだ、ということ。

 そして第二部はケアっていう他者を必然的に必要とする社会、リベラリズムが自然化し、政治としては語らず、「女」に任せ、忘却してきた社会的営みについて言及しています。

 私的領域とは家(イエ)とか家族とか家庭とかいろんな呼び名で呼ばれていますが、それらは政治的じゃないものと否定されてきました。前述の通り赤ん坊が成長するまでさまざまなケアが必要であることを身を持って知ることが家族(ただし血縁関係が必ずしも必要ではない)であり、家(ホーム)という空間なのであるということ(ハイデガーの講演はぜひ読んでみたい)。しかもケアっていうのはケアされる側/ケアする側っていう両面をもっていて、必ずしも応答可能状態にあるひとをケアするわけではないということ。ケアされる側は赤ん坊だったり、老人だったり必ずしも言葉が通じるわけではないので、だからこそ注視・気遣い・葛藤が繰り返されている。だからこそケアを引き受けるひとには倫理が必要なのだ。これこそ政治的であるっていうことなんだよ、というのが岡野さんの主張です。

 私が注目したのはリベラリズムっていうのが自分の身体まで「自分のモノ」にしてしまうこと。自分の身体が思うように動かないことが多々ある私にとっては、この「自分の身体は自分のモノ」である論はすっごく違和感を持つ。だから岡野さんの書くケア理論からの身体論っていうのは心に響く。ちょっと論文引用しますね。

 わたしたちの身体の在りようは、自己と他者、私的と公的、自律と依存といった、相対立し、まったく別個の存在であるかのように考えられてきた概念を、異なる視点から再考する契機をわたしたちに与えてくれる。

    (『フェミニズムの政治学』p.175)

  つまり一番身近な自分と言う身体がいろんなことを考えるきっかけを与えてくれる、ということであり、身体は所有物ではない、ということを示している。

 私が感動したのが(すごく安っぽく聞こえるけれど、まさしく心が揺さぶられたのが)、第二部の第三章「ケア・家族の脱私化と社会の可能性」第三節「家族のことば」というところである。ファミリー・レストランのジョナサンで私は『フェミニズムの政治学』読んでいたのだけれども、思わず涙が出てきそうになって必死でこらえた。

〈わたし〉のために生きているわけではない他者が、それでもなお、〈わたし〉を愛してくれた。その事実を想起しつつ他者の存在を受け止める家族のありようは、多様な生の価値と、一人ひとりに備わっているべき尊厳の受け止め方を、わたしたちが家(ホーム)において学びうる可能性と、さらには、実際に学んでいることを示している。

   (『フェミニズムの政治学』p.241) 

  私的領域はなんて豊かなことか、とこの文で私の経験してきたことは政治的だったのだと確信しました。アーレントは愛を「あなたが存在してほしい」と書いていたと岡野さんは書いているけれども、依存するものたちの豊饒さはこの一文に現れていると思う。

 そして第三部はケアの倫理をどのように「政治」の場で生かしていくか、自律した主体というのがいかに幻想か、ということを論じている。

 岡野さんは原初的な脆弱性(ヴァルネラビティ)を克服する必要はない、と言い切る。むしろ人間存在の脆弱性こそが他者との交わりを生み、複雑な関係性の網をはり、その網目のなかで初めて私たちは、個の尊厳が得られるということを随所で強調している。ここ重要。

 そしてケアの倫理を発展させて、証言の政治を推し進める。声なきひとの声を聴くために、私たちは荒野へと立たねばならない。

 手元にあった、知人から頂いた大沢真理さん監訳の『平等と効率の福祉革命 新しい女性の役割』も今回のことに繋がりそうなので、読んでおこう。この本もフェミニズムと政治だよね、すっかり忘れていた。あとお引っ越しが終わったらもう一度『ハンナ・アーレントフェミニズム』を再読します。この本もすごく刺激的だった。

f:id:maix44:20150331024732j:plain

 私の心に残ったところは以上です。以下は他愛もない雑記。

 論理武装っていう言葉はすごく嫌いで、論理は他者を傷つけるために使うのではなくて、自らが分からないものを分かるように脳とか身体とかのあるべき場所に置くということだと思っている。だから私は私の欲望とか生とか性をあるべき場所に置きたい。だからフェミニズムとかジェンダーとかセクシュアリティを学んできているわけです。先人の知恵をお借りしているわけだけど、それを頭でっかちだと思われることが苦痛でしかたない。あなたが考えていないだけなので、私みたいなやつもいることを少しだけ心のどっかに置いといてくれると嬉しい。

 あと最近ネトフェミという言葉が流行りだして、意味不明。フェミニズム運動はもともと草の根運動的だったから、ネットとの相性は良いはずなのに、それを揶揄するような書き方はよくない。私もWAN(ウィメンズ・アクション・ネットワーク)さんにはお世話になっております。ネトフェミという新語ってだいたい男性が作るんだよね……。

 あと岡野八代さんの後書きにはちょー同感しました。「トンネルを抜けたらそこは荒野だった」という川端康成をぱくってしまいそうな3・11以降の日本の現状みていると、荒野という表現は過言ではない。とにかく愚痴が多くなりそうなのでこのくらいにしておきますが、やっぱり第二次安倍政権ジェンダーバックラッシュを再び起こしていて、ジェンダーセクシュアリティに関しての思考停止を要求しているようにしか思えない。

 歴史認識と歴史判断っていうレポートを大昔に書いたので最後の部分だけ貼っておく。

 

歴史認識多様性は認められるべきであるが、問われるべき正当/不正がある場合、単なる歴史の物語性を超えて、現在の人間が判断しなくてはならない事柄が存在する。歴史はこの審判に常に開かれているものであり、どの審判も最終決定的なものではない。そして「『不当な<断罪>であるのではなく、歴史の正当な『再審』と不当な『再審』がありうるのである」(高橋;92~93 2001)。『再審』のトートロジーに陥らず、歴史判断を下していけば歴史認識は自ずと建設的で普遍的妥当なものになりうるだろう。

  いま読むと言葉のチョイスがおかしいけど、この『再審』の扉を閉めてしまうことは絶対あってはならないことだと思う。