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少女フェミニストの備忘録

第5回4月29日フェミ勉レジュメ『現代思想ガイドブック スピヴァク』第二章から第三章まで(p.47~118)

フェミ勉次回の開催は4月29日夜9時からです。課題図書はこちら↓

 

ガヤトリ・チャクラヴォルティ・スピヴァク (シリーズ現代思想ガイドブック)

ガヤトリ・チャクラヴォルティ・スピヴァク (シリーズ現代思想ガイドブック)

 

こちらの第2章から第3章までを読んでおいてくださいませ!

以下レジュメです。7000字以上になってしまってすみません。 

 

第二章 脱構築に仕事をさせる(p.47~77)

 

スピヴァクの重要な概念源泉=ジャック・デリタ 哲学概念の一貫性と安定が差異と二項対立のシステムに依存 スピヴァクデリダ読解を検討し知的・政治的文脈に位置づけ 『グラマトロジー』の翻訳<脱構築的思考を「第三世界」女性の政治運動・ポストコロニアル文学研究・グローバルな開発への批判=スピヴァクの独自性

デリダ脱構築的戦略の基本 ポストコロニアル知識人たちにとって脱構築的戦略が生産的なのは非西洋社会の服従・略奪・搾取を説明 正当化してきた哲学的伝統を問い直す理論的言論・概念枠組みを提供 スピヴァク=デリタの軌跡を追う→植民地主義・グローバル経済の言説・「第一世界」と「第三世界」の国際的労働分業まで有効な批判を介入←デリダの思想が潜在的に有用

 

 『グラマトロジーについて』への「翻訳者序文」(p.51~52)

『グラマトロジーについて』(1976) スピヴァクの「翻訳者序文」は英語圏でデリタがあまり知られていなかった時期に書かれたもの デリダ初期の仕事に影響を与えた哲学論争を解説・知的文脈を提示(ex.ニーチェによる真実の批判・フロイトの記憶と無意識に関する理論・ハイデガーの存在に関する問い・レヴィナスによる倫理の再考・ソシュール、バルト、レヴィ・ストロースの構造言語学ラカン精神分析フーコーの言説分析)→「翻訳者序文」はデリダの思想に関して発表された哲学論文に匹敵

「翻訳者序文」が後の学者たちの研究において問題や論議を予期 正統的な哲学的デリダ批評とは異なる→西洋哲学の脱構築を使って、植民地主義の文化遺物に関する「第三世界」知識人の間で議論を拡張、発展・「第一世界」の多国籍企業による「第三世界」労働者の搾取の継続に関して西洋マルクス主義思想を活用・「第三世界」女性の歴史や生活、闘いを記述するのに西洋フェミニズムがふさわしいか問い直す

 

 脱構築ポストコロニアル的文脈(p.52~56)

スピヴァクは政治的関心をインドにおける英国の植民地教育システムを若いころに経験したことと結びつけている 「デリダは哲学の伝統を外側からではなく内側から壊そうとしている」 デリダの知的プロジェクトに向けられたスピヴァクの関心→西洋思想の伝統を掘り起こす思いに動機付けられた

 ヤング『白い神話』→フランスのポスト構造主義論の多くはアルジェリア独立戦争によって影響を受ける フランスの知識人にとってのアルジェリア独立戦争 ヤング、脱構築が知的歴史の不可欠な一部であると主張するあまりデリダの生い立ちを強調しすぎる バーバのポストコロニアル理論←スピヴァクとは対照的

 

 脱構築と他の諸世界(p.56~60)

ヤング、バーバの理論の萌芽は「翻訳者序文」に見ることができる デリダの概念構成が西洋的哲学の脱構築が西洋的人類学の批判に関係付けられている→「文字の暴力」 レヴィ・ストロースの書いた論文「ライティング・レッスン」 ナンビクワラ族

抑圧された人々に代わって語ることで、人々の声を沈黙させてしまう西洋知識人の共犯性を強調

サバルタンは語ることができるのか?」 ブバネシュワリ・バドリの自殺の解釈

 

 脱構築と概括用語(p.60~63)

スピヴァクは概括用語がカタクレシス、不適切な用語であると主張→あらゆる表象しようとする デリダの西洋形而上学脱構築が「なんらかの政治的プログラムを基礎づけるものではないが、しかしながら『労働者』とか『女性』といった概括用語が文字通り指示対象をもたないと示唆する点で、脱構築は政治的な安全装置となる」

政治的代表行為の文脈におけるスピヴァク脱構築の利用→サバルタン集団の生活に政治闘争の普遍的言説が潜在的に害をもたらしえる

 

 脱構築と倫理(p.63~68)

フランス語で政治が言及されるときの2つの意味の二項対立をめぐって展開されていたと指摘→政治性と政治活動 デリダ初期と後期の著作の差異をもっと慎重に検証すべき

デリダ初期「この問題を守り維持する機制が働いている」→後期、この守備と維持の機制に変容が生じて「完全な他者への呼びかけ」への転換 

デリダ、倫理に対する強い関心 レヴィナスを根底に

 

 スピヴァクの思考における脱構築的読解(p.68~73)

理論とその批判対象との共犯関係を脱構築が肯定すること→最大の贈物 「探求をおこなう主体の権威を、その主体の機能を保持させたままで問い直すことできる」 

サバルタンの文学的表象」(1988) インドにおける国家独立闘争での反植民地的異抵抗運動の指導者達が民衆に会立てた社会主義的・民主主義的公約を検討 反植民地運動が利用した母なるインドという神話が、厳格な階級制度を温存し下、層カーストサバルタン女性の窮状を無視と指摘

作家モハッシェタ・デビ『乳房の与えしもの』のテクスト分析→ブルジョアイデオロギー的構造物である母なるインド神話の限界 ジョショダの身体→脱植民地化が敵視していたはずの植民地的な階級・ジェンダー構造が脱植民地化の罠となって独立後も反復される事実

帝国主義と性的差異」(1986) 西洋フェミニストが普遍的なフェミニズム的主体を構築することで、「第三世界」女性の特殊な経験を無視していると批判 「さまざまなフェミニズム批評や実践が、他の言説による実践と同様、一方においてそうした実践の場を作り出しながらも、同時にその生産現場の力関係によって構築され、特徴づけられていることを忘れるべきではない」 西洋フェミニズムと「第三世界」の女性たち

スピヴァクの批判者 アッシャ・ヴァラダラジャン スピヴァクの「容赦ない共犯性の暴露」が実は実際にはスピヴァク自身からの政治的抵抗の機会を奪っている? スピヴァクの議論をおぎなうことができるのはアドルノ? ←デリダ脱構築が持つ倫理的次元とアドルノの批判哲学との類似性を無視

 

 倫理、政治そして「脱構築に仕事をさせること」(p.73~76)

脱構築に仕事をさせること」 デリダの思想を慎重にまとめ、倫理的・政治的立場を展開 デリダの著作において西洋哲学言説の概念限界から「倫理とその政治との関わりへと焦点」が移動

デリダによるレヴィナス論 倫理的脱構築は時間がかかる・脱構築を周到に思考し実行したとしても政治状況に変化をもたらすという保証はない

サバルタンに対する倫理的でかけがえのない関係を作り出すために」必要な「辛抱強い労働」 

「新しいインターナショナルについての覚え書き」(2001) インド、バングラデシュの田舎の学校で貧しい特権のない子どもたちに識字教育を奨励する教員養成プログラムに関わった経緯 デリダの「ゆっくりと読んでほしい、たとえ政治的危急なときでも」という訴えを引きながら、スピヴァクは抑圧された者たちのために語るよりは「彼女たちから学ぶことを学習するという辛抱強い仕事をしてほしい」

サイモン・クリチリー 脱構築の袋小路 「倫理から政治」への道が閉ざされてしまう

 

 

第三章 サバルタンから学ぶ(p.79~118)

 

ヨーロッパの植民地主義によって搾取され権利を奪われた歴史を持つ個人や社会集団の体験・歴史を記述するふさわしい批評言語を見つけようという努力 概括用語ではなく 

支配的な政治言説によってあらかじめ定義されないさまざまに異なる主体の位置を捉える単語=サバルタン サバルタンの有用性=柔軟さ この章ではスピヴァクの歴史家への見方と政治的代弁について

 

 ポストコロニアル知識人と政治的応答責任(p.81~83)

力を剥奪されたサバルタン集団の生活や歴史を適切で搾取に繋がらないやり方で伝えていくこと

ポストコロニアル社会での社会的・政治的抑圧体験→階級・地域・言語・民族性・宗教・世代・ジェンダー・市民権etc... 違いを超えて子範囲に存在 差異ゆえ知識人が全般的な主張を行うとサバルタン集団の持っている社会的差異を見逃す危険

サバルタン集団持つ歴史的知識・体験に対するスピヴァクの取り組みが完全に説明できるものではないということ 独自性を持っている

モハッシェタ・デビ『乳房を与えしもの』→インドにおけるナショナリズムによる解放の約束を批判 サバルタン研究集団への批判にも通底 サバルタン研究集団の古典的なマルクス主義的方法論が、インドにおける女性の抵抗の歴史を評価することを妨げてきたと強調

 

 サバルタン概念(p.83~84)

アントニオ・グラムシ→インドにおける貧困層・下級階層・小農の状況を理解するための理論源泉←ムッソリーニ政権下のイタリアの労働分業とインドにおける植民地的労働分業とのあいだに平行関係を見ていた 貧農層の社会的・政治的活動は一貫性がない≠19世紀のマルクス グラムシサバルタン解釈における一貫した政治的アイデンティティの欠如→スピヴァクによるポストコロニアル世界での決定的に重要になっていく

 

歴史叙述を脱構築する――スピヴァクによるサバルタン研究集団への批判(p.84~91)

グラムシによるイタリア史における貧農層の議論がスピヴァクの関心の鍵  シャヒド・アミンなどのインド貧農叛乱と抵抗活動の研究であり、『サバルタン・スタディーズ』 

ラジット・グーハ「インド・ナショナリズムの歴史叙述は長い間、植民地的エリート主義とブルジョア国民主義的エリート主義に支配されてきた。どちらも英国のインド支配のイデオロギー的産物だが、権力が移譲しても生き残り、英国とインドにおける新植民地主義的言説とナショナリズム的言説のなかに統合されてきたのである」

支配的な歴史記述や歴史書への批判という、こうしたサバルタン研究の歴史家たちの姿勢は、1980年代後半のスピヴァクによるサバルタンに関する初期の理論議論にとってきわめて重要 

エリートの歴史表象を批判することは明確な政治目的をはらんでいた。サバルタンの政治的な声や行動がとり返すことができないならば、それを書き直していくことならできる

スピヴァク→貧農の叛乱と社会行動がインド国家独立の歴史的語りの危機を提示・サバルタン研究の歴史家たちのアプローチを支えているマルクス主義の方法がサバルタン蜂起の複雑な歴史を記述するのに適切かどうか問う←単にマルクス主義の思想の拒否ではない

半封建主義から資本主義的隷属への移行ではなく支配勢力と搾取された集団との間の一連の政治的せめぎあいをたどるもの

 

 サバルタン研究と方法論の問題(p.91~97)

サバルタン研究集団の修正主義的な歴史記述の実践が、その方法論と齟齬をきたしているという点 サバルタン研究の歴史家たちはサバルタンを客体化し、「それぞれのサバルタン集団が持っていた独自の要因や自律性を回復しようとする傍らで、それを知識によって」統制してしまう危険を冒している

サバルタン研究の歴史家たちの実際の行為は脱構築に近いと示唆

サバルタン研究の歴史家たちに異議→サバルタンが自ら運命を統制できる主権を持った政治主体であるという発想←主権を持ったサバルタン主体そのものが支配的なエリート言説の結果にすぎない

国民を客観的構造として表象しようとするエリート集団に対し、インド社会という社会闘争の場が「連鎖した記号の鎖」・痕跡の網の目である←脱構築用語を使ってサバルタン集団や古典的マルクス主義の用語では説明できない貧農・女性・部族民といった人々の歴史と闘争を記述する方法を得る

サバルタンの文学的表象」でスピヴァクの思想にサバルタン叛乱と抵抗が表れている

モハッシェタ・デビ「ドラウパディー」→「変化しつつある歴史のひとこまにおける革命内部の女性による革命内部の女性による闘いのアレゴリー」←女性の沈黙と消去に対する一つの重要な異議申し立て

文学こそは植民地以降のインド社会におけるサバルタン女性の反抗や抵抗を表現するもうひとつの空間を提供→デビの歴史小説ポストコロニアル世界におけるサバルタン女性の自律と抵抗を具体的に表明

サバルタン叛乱の歴史に「記号システムにおける機能的変化」として接近すること

 

 サバルタンは語ることができるのか?(p.97~102)

階級と主体性に関する西洋的モデルのスピヴァクの批判→サバルタン集団を代弁しようとする善意の衝動が、サバルタンの声を利用する結果となり、沈黙を強いる

フーコードゥルーズへの批判:美学的な表象を支える=政治的表象を支える・彼らが自分たちの記述する無力な集団を表象代弁している知識人という自らの役割を隠蔽している点 主体とは言説と表象によって構築される!!←批判を明確化するためにマルクスの『ルイ・ボナパルトルのブリュメール十八日』(1852)を使用

マルクス:貧しい自作農の表象は二重の意味を持つ 美的肖像画としての表象・政治代理人による代表行為と弁別される→フーコードゥルーズの対談はこの二つの表象が混ざっている→このような混同が左翼の知識人が代弁したがる被抑圧者集団に被害を及ぼすex.工場労働者・刑務所・精神病院に収容されている人々

美的表象と政治的表象のギャップは「第三世界」に適用されるとますます大きくなるex.西洋フェミニズムが「第三世界」女性を語ろうとする傾向 西洋フェミニスト知識人と「第三世界」の女性とのあいだに平等な連帯はない

ヨーロッパ表象理論を「第三世界」の無力な女性たちの人生や歴史に適用することの限界

サバルタンは語ることができるのか?」は、現在の物質的・政治的文脈から過去の無力化され沈黙を強いられた声を掘り起こす→サバルタンの従来の定義を拡張・女性の闘いや経験を含み込んでいく

※重要※インドにおける反英国植民地闘争の歴史での女性の積極的関与が、国家独立の公式の歴史から排除されてきたという問題

サバルタン女性のジェンダーを強調することで、従来のサバルタン概念が拡大。深化する サバルタン女性の歴史的消去に対して、スピヴァクは彼女たちの物理的・文化的歴史を分節化するために、サバルタン女性が消えた痕跡をたどろうとする

 

 植民地資料における女性の歴史を回復する(p.102~106)

階級・経済的位置にだけ焦点を合わせると、インドの植民地主義から国家独立への移行期において、女性の役割と実際の営みを見過ごしてしまうと力説 ex.「シルムールのラーニー」(1985) ラーニーの特権的な社会的・経済的位置が未来の王の母親にしてラジャの未亡人というジェンダー的アインデンティティに従属させられた 重要な点①スピヴァクの植民地資料分析が「第三世界」女性の苦難に焦点を絞ることで、サイードやバーバの植民地言説分析とは異なる ②サバルタンという用語を女性も含むよう拡張することで、この語の狭い階級的定義がより複雑になったこと

インドの元首相インディラ・ガンディーもサバルタンであった→サバルタンが広い範囲の非特権集団指し示す?→サバルタンが厳格な階級制度に従属しているだけでなく、宗教・家族・植民地国家といった家父長的言説にも従属している主体であることを強調

 

 サティと表象の限界(p.106~110)

寡婦殉死(サティ)の議論 「サバルタンは語ることができるのか?」で発展を遂げる→寡婦殉死を語る文書のなかでヒンドゥー女性の政治的意思や声がどのように表象されているか検証

『ダルマストラ』、『リグ・ヴェーダ』=寡婦殉死は極めて例外的な神聖な行い・巡礼行為

サティには家父長制度的な支配構造が胚胎されている:女性の主体性の合法的置き換えと読解→女性の死ぬという「選択」が、彼女の自由意志の放棄として置き換えられる

サティという出来事がヒンドゥー文化における女性の自由意志と道徳的振る舞いに規範という象徴性を帯びていること→サティは良き妻としての女性の振る舞いを示す「例外的なシニフィアン

例外的シニフィアンが翻訳過程で分からなくなってしまう→サティを野蛮な表象とすることで、英国人は帝国主義を文明化の指名として正当化・英国人がインドの女性たちを伝統的なヒンドゥーの家父長制社会の非難すべき風習から救済しているのだと信じ込ませた

サティの議論:英国植民地政府による寡婦殉死の表象がヒンドゥー女性の声や主体的行動を見過ごしている

エドワード・トンプソン『スティー』(1927)→女性の主体性を擁護するのではなく、むしろ未亡人の肉体をイデオロギー的な闘争の道具として使い、自らの植民地権力を強化すること

スピヴァクのサティ議論は西洋の政治表象理論に対する重要な問いかけ→ヒンドゥー宗教的規範内部での女性主体の法的な置き換え・寡婦を家父長制の暴力の受動的な犠牲とする英国のやり方もサバルタン女性の社会的・政治的主体を無視している→だから「サバルタンは語ることができない」

 

 サティと植民地主義への抵抗(p.110~114)

ブバネシュワリ・バドリは抵抗運動への自らの関与を隠すために、ヒンドゥー古来の寡婦殉死に似せた自殺の儀式をとりおこなった→ブバネシュワリは寡婦殉死の規範に準拠していない ブバネシュワリの試みはインドの国民独立運動期における「戦う母親たちについての支配的な言論」に例えられる

ブバネシュワリによるサティ自殺のテクストの書き直しは「悲劇的な失敗」に終わった→男性中心国家独立闘争において「サバルタン女性は聞かれることも読まれることもない」から

サバルタンは語ることができない」という言明は政治的表象の構造だけでなく、現代の理論的モデルの限界に関して多くの議論を呼ぶ→ベニタ・パリー:無力な女性たちの歴史的・社会的抑圧をポスト構造主義の方法論で分析することは、彼女たちをさらに沈黙させる? バート・ムーア=ギルバート:サバルタン女性の抵抗が植民地支配における支配的な植民地主義の言説の中に記録されている明瞭な歴史的事実が存在する?←肝心なのはサバルタンの抵抗例がつねに支配的な政治表象システムのフィルター

 

 サバルタンは投票することができるか?(p.114~117)

サバルタンは投票することができるのか?」(1990) 1990年のニカラグア選挙に焦点を置いた→「日常会話における話し手と聞き手という直接関係」が「政治語り」にも適用可能だとする常識を疑ってかかる→「選挙の過程によって、人々が語ろうとする瞬間、人々のサバルタン性が現実に再生産される」

スピヴァクサバルタン女性の解放について完全な政治的解決や理論的定式を提供しているわけではなく、代わって語ることの限界と害を及ぼす可能性を暴こうとするだけ