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Don't cry baby,please !!

少女フェミニストの備忘録

第4回3月25日 フェミ勉まとめ

 3月25日の第4回フェミ勉のまとめをMさんがして下さいました(書記に徹し、フェミ勉の縁の下の力持ち的なMさん、いつもありがとうございます)。

 フェミ勉の模様をMさんのお言葉でお伝えさせて頂きます。

 


まだ春の蕾が幼き頃に第四回フェミ勉は開催されました。

 

まとめ 

 

一般に思想の難解度は、その内容に起因する。そのため難解な思想内容は、そうであるほど、明晰で平明な表現によって伝えられねばならない。その典型が数式を用いた表現である。そこでは多少の訓練を積むならば誰もが一致した内容に到達できるはずである。
ところが、このような常識が通じないのがスピヴァクという思想家である。

 

スピヴァクの思想にあっては内容はともかく表現そのものが難解なのだ。もちろんスピヴァクの表現が難解であるのは、スピヴァクによる意図的なものである。
それでは、なぜ、スピヴァクは、かくも難解な表現を、あえて用いるのか。
フェミ勉第四回は、スピヴァクにおける内容と表現との、このような奇妙な捻じれともいうべき問題について議論(されるはずであった?)。

 

上記の問題を考えるために読書会ではポストコロニアルの状況が提起された。
先進国と呼ばれる社会に我々は生きている。だが先進国で生きているという前提を、あまりに我々は自明視している。そのため、いわゆる「第三世界」の存在とりわけ、その世界における貧しい女性や子供の存在を思考できない。それゆえ先進国における我々の思考の前提を疑うこと、そこから始めねばならない。
ならば我々の思考や言葉を捨て「第三世界」の人々の立場に立てば良いのだろうか。そうではない、というのがスピヴァクの思想である。
(スピヴァクは、そのためにデリダによる脱構築という方法を採用する。デリダの方法とはシンプルに述べるならテクスト主義、つまりテクストの外側に「現実」がある、という見方を疑問視するものだからである。ここでの「現実」とは、我々の思考や言葉が自明視する「第三世界」の女性という存在である)。

 

さらには「第三世界」と我々という、この彼我の差異そのものを疑う必要がある。既にグローバル化のなかで人々は国家の枠を超え流動化している。グローバル化は従来の先進国の内部に「第三世界」とも呼べるような貧困化の状況を作り出しつつある。

 

それならばスピヴァクの叙述の複雑性は、どこに由来するのか。
まずは、我々の思考そのものがもつ自明性を疑い、その思考に隠れた権力性を暴くことの必要性、しかしながら我々の思考から離れた外部として安易に女性や子供を見出すことへの疑問視、さらにはポストコロニアル状況としてグローバル化における豊かさと貧困とが混交された状況にあっては、すでに我々の思考の外側など容易には存在しないこと、以上の思想的状況的問題を反映するためスピヴァクの叙述は複雑化せざるをえない(=異種混交性)、というのがフェミ勉で指摘されたことである
(もちろん帝国主義の段階においても状況は複雑だった。宗主国と植民地という対立図式が、植民地での女性の問題を見えなくするからである。またフェミ勉ではアルチュセールの重層的決定との関連も示唆された)。

 

スピヴァクの認識を受け入れるなら我々の思考が「第三世界」の女性たちに沈黙を強いるのは必然的である。ならば我々が「第三世界」の人々について語ることはできるのだろうか。とりわけ男性社会を自明視する男性が女性を語ることができるのだろうか。フェミ勉の話題は、この問題に進んだ。

 

だがしかし、まとめとしては、いささか冗長にすぎた。もとよりフェミ勉では、あまりに任の重すぎる問題である。そのため、この問題は各人に委ねることにしよう。