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Don't cry baby,please !!

少女フェミニストの備忘録

「百合作品かレズビアン作品であるか」問題と「これは百合じゃない」問題に共通する不毛さ

 おはこんにちは、2.5次元沼にハマりすっかりお肌ツヤツヤのmaiです。

 今日はお題の通り百合作品かレズビアン作品であるか、という議論の不毛さについてつらつらと書き連ねていこうかと思います。

 まず個人的なことから。

「私はいわゆるバイセクシュアルで、男性を好きになったり女性を好きになったりさまざまです」

 と書くと簡潔でいいんですが、私のセクシュアル・アイデンティティは結構揺らいでいてクエスチョニングというのが一番あっているのかなあ、と考えてみたり、発情装置というか欲情のタイミングが男女で違う私はバイって言ったらなんか申し訳ないとか考えたり。悩みが尽きません。面倒くさい。我ながら面倒くさい。アラサー女がこんなことを言って、もう恋愛市場からは外れているよと嘲笑の声が聞こえてきたりもします。

 もういい。己の自意識の重さは重々に承知している。ならば、女の子を見て癒されよう!! 現実なんてどうでもいい!! こんな感じで百合が好きです、自分でも書いています。

 百合という言葉の語源にレズビアンが該当するのは『性的なことば』でも言及されています。(p.277)

性的なことば (講談社現代新書 2034)

性的なことば (講談社現代新書 2034)

 

  そしてユリイカの百合特集で、天野しゅにんたさんが「レズはひとりでいてもレズ。百合は二人のいるのを外部から見て決めるもの。本人たちがどう思っているかはともかく、外部から見てはじめて百合は百合になる」と森島明子さん発言を引用されています(p.98)。

  私ごときが森島先生に反論とは笑止と思われるかもしれませんが、私は「百合はひとりでも成立する」と考えています。

 その①吉屋信子超大先生のSの精神は「結婚への道」に対する反抗でありました。まさしく女性の自立は革命だったんです(『屋根裏の二処女』は涙なしには読めません)。

 その②「百合はふたり」なら悪しきヘテロセクシズムに毒された)カップル至上主義に百合が陥ってしまわないか、という危惧があります。

 森茉莉さんが「精神が貴族」と言い切ったように「精神が百合(ないしレズビアン)」でだいたいOKなのでは? と思います。

 こうしてみると百合作品とレズビアン作品の差ってほとんどないです。というか差をつけることに何が意味があるのか私にはよくわかりません。

 あとは語感の問題でしょうか、百合だとソフトに聞こえ、レズビアンだと生々しい。また「レズビアン=女性の同性愛者」=セクシュアルな様々な問題を想起させるけど百合はフィクションだからetc……

 くだらん。まとめて女は私の嫁だ!! とも言いたくなります。「百合作品」だろうと、「レズビアン作品」だろうと、表象に囚われず、その本質への心眼を磨くべきではないでしょうか(私はヘテロカップリンも片方を女体化して百合百合させるのが好きです)。

 昔、見たブログで私の大好きな『おにいさまへ…』というアニメが百合じゃないと憤怒されてたことをよく覚えています。「百合じゃないって言って、なにか百合作品・レズビアン作品に貢献することがあるのか?」と疑問を覚えたことがあります。

 「百合じゃないよね、レズだよね」と言って、百合作品・レズビアン作品を貶しているだけはありませんか? 別にどっちでもいいじゃん。作品が素晴らしいなら。と私は思うのです。

 

 じゃあお前はどんな作品観てるんだって言われそうですね。

 とりあえず今年最高の映画『キャロル』はおさえておきたいですね。

キャロル [Blu-ray]

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  私は同性の愛情を描いている作品でのアオリで「禁断の~」とか「いけない~」とかが大っ嫌いです。嫌悪しています。『キャロル』はフツーに出会って、恋してでいいじゃない、というところを体現してくれた映画。ラストのほうは小説のほうが個人的に好きです。

 最近、読んだ小説では『西洋菓子店 プティ・フール』が百合要素があって、素晴らしかったです。

西洋菓子店プティ・フール

西洋菓子店プティ・フール

 

  この本はいわゆる「転向」小説(カップリングが百合からヘテロに切り替わる)とも読めるんですが、私はむしろこの無念の「転向」の生々しさへ共感しました。あんなに荒々しい少女だった彼女が、少女であったことの魂を忘れ、ただの(男に愛されるだけの)女になってしまったという無念さ。悲しい。でもそんなこと言っている自分は? と内省を迫られますね! ああ、胸が千々に乱れます……。「転向」小説でもこういう読み方ができると思うのです。

 作品として素晴らしかったら、そこを認めようっていうスタンスです。百合・レズビアンがいかに書(描)かれいるか、その本質を見抜く力が必要だと思うのです。これからもどんどん百合やレズビアン作品を観て読んで感じて、心眼を鍛えていきたいです。

 ということで、今回はここらへんで失礼します。