Don't cry baby,please !!

少女フェミニストの備忘録

解体される主体と愛の夢 ――2.5次元から少し離れて

今、私はアルスマグナから距離をとっています。なぜそういう状況になったのか私自身すごく困惑しました。しかし今はそれを言葉にできると思います。

 

その時は唐突に訪れました。

トーマス・マンの『魔の山』の上巻を読み終わった時でした。

魔の山〈上〉 (岩波文庫)

魔の山〈上〉 (岩波文庫)

 

 この小説はサナトリウムを舞台に第一次世界大戦前いかにヨーロッパが病んでいったかを書かれた小説であり、また時間の認識の仕方も書いている本です。

上巻が読み終わり背表紙を閉じたときに、私はアルスのことが頭に浮かびました。その瞬間にアルスとともに過ごした時間がヴィデオのように巻き戻されそして早送りされました。ほんの一瞬の出来事でした。

そしてレディオヘッドの代表曲である「CREEP」の何気ない一節、I do't belog hereという歌詞が思い浮かび、私はアルスのファンを、少なくとも公言することを辞めるべきだと思いました。

Creep

Creep

 

 

I do't belog hereの訳は「ここは私の居場所じゃない」「ここにいない」などと訳されますが、わたしは「ここに属していない」というふうに訳します。私はアルスに属していない。またファンダムの世界にも私はいない、と思い焦りました。

あれだけの時間を費やし、あれだけの空間を共有したのに。夢が終わるときは本当に一瞬なのだな、と冷静に思いました。そしてアルスから離れることこそが夢で、私はまた違う夢を見ているのでは、という胡蝶の夢ではないだろうかと思いました。

私にとっては大きな転換が予兆もなくたった一瞬でなされたことが震えあがるほど怖く、そして諦めに似た、覚めるできときが来たのだなという思いが駆け巡りました。

私はアルスマグナを通して、見るべきものを見、聴くべきことを聴き、感じるべきことを感じ、考えるべきことを考えました。その時間はまさしく「愛の夢」であり、幸せでした。苦悩すら愛おしいくらいに。

話は変わりますが、つねづね今を生きるひとという主体は解体されているのだなと感じています。

「男性らしさ/女性らしさ」「文化/自然」「異性愛/同性愛」「公/私」「善/悪」「快楽/苦痛」etc。矛盾するふたつの間を綱渡りのように、均衡を保って少しづつ歩んでいる、と。私も例外も漏れずそのひとりだと思います。

ふたつに引き裂かれる状況に耐えられない、と私は感じました。多くのひともまたその状況に耐えられているとは思いません。みんなどこかに「ライナスの毛布」を持って現実に立ち向かっている、と私は実感しています。

私はアルスマグナにハマる前はとても張りつめていました。私は私の小説を書けないということに苛立っていました。バランスを保てない状態で、私は綱が切れたように落ちて行ったのが、アルスマグナという「沼」でした。

その「沼」はもしかしたら、違法ドラッグだったかもしれなかった、危険な新興宗教だったかもしれなかった。簡単に抜け出せない、まさしく沼が、アルスマグナで良かったと思っています。法律では禁止されてはいなし、害は少ないからです。

そのアルスの「沼」の中でも私という主体は引き裂かれていました。「現実/夢」「愛/憎悪」「資本制/反資本制」ここでも「快楽/苦痛」etc。

分け隔てられ、どこまで行っても交わることがないふたつたち。でもそれが私の本質であると確認して、受け入れられたのが、紛れもなくアルスマグナという存在でした。

ライナスの毛布」はいつか手放さなされるときが来ます。私の手放すときは、上記のときでした。私にとってアルスマグナはまだまだ愛する存在です。でも毛布がなければ感じることも、考えることもできないという状況からは、脱することができた/脱さなけらばならなかった。

私はアルスのおかげで二元論のなかを再び泳げるようになりました。二元論の与える重圧が心地よいと思えるくらいに。

「イン(陰)とヤン(陽)。光は暗闇の左手……これはどういう意味だろう? 光、暗闇。恐怖、勇気。寒、暖。男、女。これはあなたのことだ、セレム。二人であり一人である。雪上の影」

アーシュラ・K・ル・グィン 『闇の左手』(p.321)

闇の左手 (ハヤカワ文庫 SF (252))

闇の左手 (ハヤカワ文庫 SF (252))

 

  ふたつに引き裂かれた私はひとつであるということ。私に再びそれを気づかせてくれたのがアルスマグナ。私は愛おしい気持ちとともに、懐かしさを感じて彼らを応援したいと思っています。